君への轍
その夜、22時過ぎ。

薫は神妙な顔で濱口家を訪れた。

「夜分、遅い時間にすみません。」


あけりは笑顔で、母のあいりは微妙な顔で、そして継父は作り笑顔で薫を迎えた。


「まあ、玄関先ではナンやしな。どうぞ。」

継父にそう言われて、薫はさらに恐縮した。


……非常識な時間……過ぎたかな……。

「すみません。お邪魔します。……あの、これ……新潟で買ってきました。どうぞ。」

薫はそう言いながら、あいりに大きな紙袋を手渡した。

「……まあ……こんなに……いつも、すみません。」

「明日やなくて、今日じゃなかったらあかん理由は、まさか、賞味期限じゃないやろうな?」


冗談なのか、嫌味なのか……継父の言葉が、ぐさぐさと薫に突き刺さる。


「はあ。……先ほど、師匠の……泉勝利から電話がありまして……明日の午前中の便で、シンガポールに行くことになりました。」

「……シンガポール……。」

ふるるっと、あけりの身体が身震いした。


あの身体にまとわりつく熱い空気の感覚を思い出した。


「しょーりさん、シンガポールに行ってはるの?」

あけりの確認に、薫がうなずいた。

「うん。……リハビリって言ってたけど……その段階はもう終わったか……すっ飛ばしたか……けっこう乗り込んでるんじゃないかな。……そんな声してたから……ごめん、急やけど、行ってくる。」


……不思議な気分だった。

競走で4日間会えなくて……やっと会えたと思ったら、次は合宿?

いつまで会えないかもわからない……。


正直なところ、淋しい。

でも、……泉のために、急遽シンガポールに飛ぶと決めた薫は……ものすごくかっこよかった。


あけりは、こんな状況なのに、ときめいていた。


「謝らなくていい。……無理して、こうして、報告に来てくれただけで、充分うれしいから。競走終わって、疲れてるのに……ありがとう。」

強がりでもなく、心からそう言えた。


でも薫は苦笑した。

「……あけりちゃん、聞き分け良すぎ。もうちょっと、拗ねてくれてもいいんやけど……ありがとうな。」


まあ……あの、師匠と2年間暮らしてたんだ。

何よりも、練習と競走が最優先と叩き込まれているのだろう。


そんなあけりが、不憫で……かわいくて……愛しかった。
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