君への轍
泉はそう言って、輪行バックを薫のほうに押しやった。

それから、思い出したようにつけ加えた。

「紹介は、結婚決まってからでエエで。……お前の彼女が、また俺に惚れてしもたら、かわいそうやからな。」

……笑えない冗談だった。

これまでにも何度もあっただけに、泉も本気で気を遣っているようだ。


でも薫は、違う意味で神妙な顔になって、頭を下げた。

「あーざす。結婚します!宮杯終わったら、師匠に会いたいそうです!よろしくお願いします!」

「……会いたいて……あかんやん。何?俺のファンなん?」

泉が顔をしかめた。


薫は黙って、首を横に振るに留めた。





日曜の午前中、高速道路はいつもより交通量が少ない。

渋滞に巻き込まれることもなく、薫は11時にはあけりの家を訪ねることができた。


玄関チャイムを押すと、待ち構えていたらしく

『はい!』

という元気のいい声に続いて、すぐにドアが開いた。


艶やかな赤い振袖の、あけりが飛び出してきた。


「おかえりなさい!」

「え!着物!?どうしたん?どっか行くん?」

……ただいまの言葉を返すことも忘れて、薫はそう尋ねた。


あけりはぷるぷると首を横に振った。

「こんな蒸し暑いのに、合わせの、しかも振袖なんか着て外出できませんよ。……エアコンがんがんに効かせた家の中だけ。」

「え?……じゃあ、なんで着てるの?」

不思議そうな薫に、あけりは笑顔で言った。

「薫さん、着物好きって言ってたから。」

「……。」

俺のため?

俺に見せるためだけに、シンガポールと大差ないぐらいくそ暑い、夏直前の京都で、振袖を着てくれたのか?

……えもいわれぬ感動が胸を席巻する。


「ほら。さすがに、水島さん、呆れてらっしゃるわよ。……気が済んだら、早く着替えてらっしゃい。」

あけりの母のあいりが、現れて、そうたしなめた。


「呆れてる?」

慌ててあけりが薫の顔を下から覗き込んだ。


……かわいい……。

呆れるわけ、ないだろ。
< 159 / 210 >

この作品をシェア

pagetop