君への轍
あけりは、驚いて聡を見た。

冗談っぽい声だけど、その目はふざけているようには見えなかった。


……どうしよう。

どう答えよう……。


あけりは、ドキドキする胸を少し押さえて……それから口を開いた。

「……正直言えば……、あの頃、聡くんが……今みたいに自転車に乗ってたら……少なくとも自転車仲間になってたと思うけど……。」

たぶんそれは間違いないだろう。

でも、聡がどうあれ、当時のあけりには他に好きなヒトがいた。

その事実は変わらない。


あけりの答えに、聡は力強くうなずいた。


……何となく……かっこよく見える気がする……。

あけりは自分の中の聡像の変化に動揺していた。



「……そっか。……じゃあ、今は?残念ながら、自転車仲間にはなれないけれど、友達にはなれる?」

友達以上……とは、言えなかった。

聡はあけりの瞳に動揺を見て、それ以上踏み込むのをセーブした。

……再びあっさり振られてしまうのが怖かったのかもしれない。


あけりは、うなずいて、それから、首を傾げた。

「友達……うん。てか、友達だと思ってた……。おうちにもお邪魔したし。」

「そう?それっきり音信不通だったけど?……じゃあ、何かあったら、誘っていい?」


そんな風に言われて、あけりは固辞できるわけがない。

うなずいたあけりに力を得て、聡は尋ねた。

「じゃあ、シンガポール土産、何か欲しいのある?」

「や、そんな、気を遣わなくてもいいよ。……あ……そうだ。聡くん、お能、興味ある?」

「へ?」

突然、話題が飛んだぞ。

能は……まあ……嫌いじゃない。

というか、けっこう縁がある……かもしれない。

シンガポールに居る実の母の再婚相手は、素人(しろうと)ながら、かなりの好事家で能や仕舞いをこよなく愛している。

去年の夏休み、シンガポールでプロの能楽師による舞台にも、素人の発表会にも連れて行かれ、レクチャーを受けた。

さっき図書館で借りた本の中には、世阿弥の「風姿花伝」もある。


「うん。割と好きで観てる。」

聡の答えは、あけりの予想外のものだった。

「じゃあ、お能に誘うわ。私、学校の能楽部に入ってんわ。顧問の先生の出てはる舞台は無料招待してもらえるねん。同行者は、無料か半額らしいわ。どう?行かない?」

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