君への轍
あけりは文字の横に振った点やカギ括弧のような記号を指さして、部長に尋ねた。

「うん。それが楽譜みたいなもんかな。節回しの指示記号なんだけど……これがけっこうややこしくってねえ。同じ記号でも、ツヨ吟(ぎん)って呼ばれる曲とヨワ吟(ぎん)って言う曲とでは、意味合いが変わってくるのよ。」

部長は頭を掻きながらそう説明してくれた。


「え……何か、ややこしそうですね……。」

思わず息を飲んだあけりに、部長はうなずいた。

「うん。だからね、記号を覚えても、西洋音楽のように自分で譜面を読んで歌えないから。1曲1曲ね、謡は口伝(くでん)なの。口伝えで、節回しを覚えるの。」

そう言って、部長は自分のスマホをチョイチョイといじって、あけりのほうへ向けた。


♪そ~れ~青陽のぉ春になれば~~~ 四ぃ季ぃ乃節會のぉ事始め~~~♪


いかにもおじいさんの声で、「鶴亀」の最初の1節が流れた。

部長は、音を消して、それから言った。

「まあ、こんな感じでね、ネットにはいくらでも音源が溢れてるし。これは、国会図書館のサイトなんだけど。とりあえず、顧問の徳丸が一句一句説明しながら謡って教えていくから、自分なりにメモってね。お稽古の録音データは共有フォルダに入れとくから、いつでも聞いて復習できるから。」

「……何か……古いのか、新しいのか……すごいですね……。」

口伝えで習得するという古臭さと、データをネットで保存するという便利さに、あけりは感心した。


「ふふ。父の頃はカセットテープで録音したそうよ。私の子供の時はICレコーダー。……でも、今やスマホ1つで全部済んじゃうだもんね。」

「……録音に頼らず、なるべくその場で覚えてほしいけどな。」

そう言いながら音もなく入室してきたのは、顧問の徳丸だった。

「お待たせ。……じゃあ、始めるか。」

「はい!よろしくお願いします!」

徳丸はニヤリと笑って、力強くうなずいた。



すぐに謡曲を教えてもらえるのかと思ったら、まずは和室の入りかた、歩きかた、座り方、座礼のしかた……と、一通りの礼儀作法を教わった。

小学校でも中学でも、茶道を教わった経験があるあけりにとっては、どれも珍しいものではなかった。
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