一代の歌姫・桂繊
二
「でも、あの方たちは本当に私の歌を誉めたのかしら? 単に主人に諂っただけだったかも知れませんね。……考えてみると世の中のことは全て一場の夢なのですね。」
桂繊は、しみじみした口調で言いました。飛ぶ鳥も落とす勢いだった洪国栄も結局は都を逐われ、惨めな最後を送ったのですから。
国栄が都落ちすると、桂繊は妓籍を抜けました。そして旌善郡に戻り再び仏に仕える生活をするつもりでした。
「ところが孝田(沈魯崇の号)さまの御一族のあの方に出会ってしまって……。」
桂繊が笑顔でこう言うと魯崇もつられて笑いました。
桂繊が旌善に発とうとした時、彼女の音楽人生に大きな影響を与えるもう一人の人物が訪ねて来ました。彼の名は沈鏞といい、李鼎輔と同じように多くの音楽家たちを支援していました。彼と言葉を交わしているうちに、その人柄に引かれた桂繊は彼のもとに行くことにしました。さっそく坡州にある沈鏞の屋敷の近くに家を求めた彼女は、そこに住み、彼の屋敷に通って音楽活動を再開しました。
沈鏞の屋敷には、一流の音楽家~ 歌手、演奏者たちが集まっていました。彼らとの交流が桂繊にもたらしたものは少なくありませんでした。彼らと切磋琢磨することで彼女の歌声は以前にも増して艶やかになりました。
さて桂繊たちの後援者である沈鏞は、彼らの日頃の成果を発表する場も用意してくれました。その一つが大同江の船上で行なわれた平壌監司の還暦の祝賀宴での公演でした。この公演は大好評で監司は沈鏞に莫大な褒美を与えました。
桂繊は喜色にあふれた表情で言いました。しかし、魯崇は知っていました。いくら一流歌手としてもてはやされようと社会の最下層に身を置く妓女は、所詮、卑しいものに過ぎないとしか思われていないという現実を桂繊が十分に理解していることを。
「私には過分な人生でしたけれど、一つだけ心残りがあるのです。」
「それは何だね?」
「はい、私には〝真の出会い〟が無かったことです。」
「〝真の出会い〟とは?」
魯崇が今一つ意味が掴めないという表情で訊ねました。
「はい。私はこれまで多くの方々~ 世間から高い評価を得ていらっしゃる方にも出会いました。しかし、生涯の伴侶にと思う方には遂に出会いませんでした。かつて三州さまが〝汝と見合うほどの男は今の世には居まいよ〟とおっしゃったのですが、その通りでした。私としては、歌で名声を得て豊かな生活を送るよりも良き人とめぐり会って共に暮らしたかったのです。でも、これも天の定めというもの、無いものねだりをしても仕方ありませんね。」
桂繊はあくまで潔い女性でした。
「さて、草稿のようなものは出来たのだが、読んで見るかい。」
魯崇はこう言いながら筆を置き、走り書きを桂繊に渡しました。漢文の素養もある彼女は、さっそく視線を紙の上に落としました。
「まあ、何て上手く書いてあるのでしょう!」
端正な漢語で綴られた自分の半生を読み終えた彼女は、嬉しくもあり若干の気恥ずかしさも感じました。こうした桂繊の心中を察してか、魯崇は次のように言いました。
「こうして記して置けば、我々すべてが死した後にも桂繊という歌姫がいたことを後世の人々が知ることが出来るのだよ。あなたの歌がどれほど素晴らしかったかを伝えるのが私の役目だと考えているのだから。」
魯崇の言葉に、桂繊は再度涙を流しました。
いつしか日は傾き、部屋に差し込む陽光が彼女の顔を照らしました。
― あなたも、そして私自身も時機に巡り合わなかったかも知れない。しかし、いつの日かあなたや私のような人間がきちんと扱われる世の中が来るだろう。
気高さを感じさせる桂繊の面差(おもざし)を見詰めながら、魯崇はこのようなことを考えたのでした。
桂繊は、しみじみした口調で言いました。飛ぶ鳥も落とす勢いだった洪国栄も結局は都を逐われ、惨めな最後を送ったのですから。
国栄が都落ちすると、桂繊は妓籍を抜けました。そして旌善郡に戻り再び仏に仕える生活をするつもりでした。
「ところが孝田(沈魯崇の号)さまの御一族のあの方に出会ってしまって……。」
桂繊が笑顔でこう言うと魯崇もつられて笑いました。
桂繊が旌善に発とうとした時、彼女の音楽人生に大きな影響を与えるもう一人の人物が訪ねて来ました。彼の名は沈鏞といい、李鼎輔と同じように多くの音楽家たちを支援していました。彼と言葉を交わしているうちに、その人柄に引かれた桂繊は彼のもとに行くことにしました。さっそく坡州にある沈鏞の屋敷の近くに家を求めた彼女は、そこに住み、彼の屋敷に通って音楽活動を再開しました。
沈鏞の屋敷には、一流の音楽家~ 歌手、演奏者たちが集まっていました。彼らとの交流が桂繊にもたらしたものは少なくありませんでした。彼らと切磋琢磨することで彼女の歌声は以前にも増して艶やかになりました。
さて桂繊たちの後援者である沈鏞は、彼らの日頃の成果を発表する場も用意してくれました。その一つが大同江の船上で行なわれた平壌監司の還暦の祝賀宴での公演でした。この公演は大好評で監司は沈鏞に莫大な褒美を与えました。
桂繊は喜色にあふれた表情で言いました。しかし、魯崇は知っていました。いくら一流歌手としてもてはやされようと社会の最下層に身を置く妓女は、所詮、卑しいものに過ぎないとしか思われていないという現実を桂繊が十分に理解していることを。
「私には過分な人生でしたけれど、一つだけ心残りがあるのです。」
「それは何だね?」
「はい、私には〝真の出会い〟が無かったことです。」
「〝真の出会い〟とは?」
魯崇が今一つ意味が掴めないという表情で訊ねました。
「はい。私はこれまで多くの方々~ 世間から高い評価を得ていらっしゃる方にも出会いました。しかし、生涯の伴侶にと思う方には遂に出会いませんでした。かつて三州さまが〝汝と見合うほどの男は今の世には居まいよ〟とおっしゃったのですが、その通りでした。私としては、歌で名声を得て豊かな生活を送るよりも良き人とめぐり会って共に暮らしたかったのです。でも、これも天の定めというもの、無いものねだりをしても仕方ありませんね。」
桂繊はあくまで潔い女性でした。
「さて、草稿のようなものは出来たのだが、読んで見るかい。」
魯崇はこう言いながら筆を置き、走り書きを桂繊に渡しました。漢文の素養もある彼女は、さっそく視線を紙の上に落としました。
「まあ、何て上手く書いてあるのでしょう!」
端正な漢語で綴られた自分の半生を読み終えた彼女は、嬉しくもあり若干の気恥ずかしさも感じました。こうした桂繊の心中を察してか、魯崇は次のように言いました。
「こうして記して置けば、我々すべてが死した後にも桂繊という歌姫がいたことを後世の人々が知ることが出来るのだよ。あなたの歌がどれほど素晴らしかったかを伝えるのが私の役目だと考えているのだから。」
魯崇の言葉に、桂繊は再度涙を流しました。
いつしか日は傾き、部屋に差し込む陽光が彼女の顔を照らしました。
― あなたも、そして私自身も時機に巡り合わなかったかも知れない。しかし、いつの日かあなたや私のような人間がきちんと扱われる世の中が来るだろう。
気高さを感じさせる桂繊の面差(おもざし)を見詰めながら、魯崇はこのようなことを考えたのでした。