好きにならなければ良かったのに

 それは今から「抱く」ということ。けれど、美幸は少し戸惑ってしまう。
 幸司の体の変化を見て取ればそのセリフは自然な流れだと分かる。けれど、ここ最近、幸司から求められることはあまりなく同じ部屋で眠っていても、同じベッドで横になっていても幸司と肌を重ね合わせることは無かった。

 なのに、何故、今、ここでそうなのか。美幸は幸司の腕の中で甘い夢を見れそうになくて戸惑いの方が大きくなっている。

「その前にお父さんのお見舞いをさせて」
「分かった。俺も一緒に行く」
「でも、その格好じゃ……その」
「大丈夫だ、病室へ行くまでには落ち着いているよ」

 幸司の言葉通り、急に萎えてしまったのかその躰の変化はあっという間にいつもの状態に戻ってしまった。それはそれで申し訳なく感じる美幸は俯いたまま幸司と一緒に病室へと向かう。

 二人並んで病室へと向かうが、歩くその歩幅に差が出来る。
 美幸の一歩前を進んで歩いていた幸司とは少しずつ距離が開いていく。その距離を埋めようと必死に大股で早歩きをする美幸だが、どんどん開く差に美幸の足が止まる。

(……香川さんの言葉も満更嘘ではないかも)

 香川の言葉が脳裏を過ぎる。それは大石部長の娘だから欲しいと言われたあのセリフだ。
 何度も何度も美幸の耳に囁きかけるようにあのセリフが聞こえてくる。そして、その声が耳から離れず美幸を惑わせる。

「美幸? どうした? 置いていくぞ」

 幸司の声にハッとして顔を上げると、そこには美幸を置いて行ってしまった筈の幸司が目の前まで戻って来てくれていた。そして美幸に手を差し伸べるその顔はとても優しく、これまでの幸司とは違うと感じる。

「……ごめんなさい」
「ほら、行くぞ」

 幸司の大きな手が小さくて柔らかな美幸の手を待っている。立ち止まったまま差し出されたその手に美幸が手を重ねると、ギュっと握り締められ幸司の方へと引き寄せられる。

「もたもたするな」

 乱暴な物言いだが、これまでの幸司とはどこか違う。ぶっきら棒だが初めて会ったときの幸司の笑顔を思いだす。それが何を意味するのか、美幸は戸惑いが大きいながらも幸司を信じたいと、その大きな手を握り返す。

「早く美幸の顔を見せてお義父さんを安心させよう」
「うん」

 握られたその手がとても温かくて美幸の心の中までその温もりが伝わる。とても安心感があり心地よい温もりに、美幸の心の中では幸司を信じたいと思っていた。


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