好きにならなければ良かったのに

「無視しないでよ!」

 怒りで晴海が怒鳴ると、やっと晴海に気付いた幸司が顔を上げるが、まるで死人のような覇気のない顔に晴海は驚いて言葉に詰まる。

「日下……か」

 晴海の顔を見上げたものの陰鬱な幸司は再び俯いてしまう。幸司に振られて泣きたい気分なのは自分なのにともっと怒鳴ってやりたくなる晴海だが、あまりにも幸司の重苦しい雰囲気に怒鳴れなくなる。

「何があったの?」

 晴海が聞いても幸司は全く返事をしない。晴海に無反応な態度を示す幸司はデスクから立ち上がり営業部から出て行こうとする。

「あの、ちょっと?」

 晴海が呼び止めようとすると、足を止めた幸司が少しだけ振り返ると一言晴海に向かって言う。

「コーヒーを飲んでくる」

 弱々しい声でそう言うと、フッと笑った幸司が営業部から出て行く。笑ったもののあまりにも悲しそうな笑みに晴海は胸がギュっと絞めつけられる。
 書庫から出た後にいったい幸司に何が起きたのか。余程ショックな事が起きたのだろうかと驚きで晴海まで呆然とする。

「てっきり晴海ちゃんが原因かと思ったけど、違ったようだね」
「課長はどうしたの? 何であんな状態なの?」
「さあ。俺が来た時には既にあの状態だったし」

 吉富に声をかけられた晴美が部署内を見渡すと、戸田も香川も困惑した表情を見せる。

「大石さんは? 彼女はまだ来ていないの?」
「さあ、まだ顔を合わせていないけど。光彦は?」
「いや、まだですけど」

 晴海が香川の方へ視線を送ると、香川もまだ美幸とは顔を合わせていないと頭を横に振る。晴海は幸司が出て行った方へと視線を向け暫く考え事をしていたが、フッと笑うとおもむろに自分のデスクへと戻って行く。
 そして、デスクの一番下の引き出しを開けるとそこからファイルを取り出し机上へ置く。パソコンの電源を入れると「香川さん、仕事の打ち合わせ始めましょう」と言って笑みを見せる。

 晴海と幸司の対照的な態度が気になった吉富は、営業部から出て行くとエレベーター近くにある自販機へと急いだ。幸司の「コーヒーを飲んでくる」と言ったセリフはきっと自販機を意味しているだろうと思った。
 案の定、自販機のところまで行くとそこには幸司が自販機の前に立っている。しかし、未だに呆然としている幸司を見て吉富は気まずそうに声をかける。

「課長、買わないんですか?」

 缶コーヒーも財布も何も手に持っていない状態の幸司にそう訊くと、幸司は吉富の声に気付き顔を上げる。

「あ、いや。いいんだ。俺はもういい」

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