好きにならなければ良かったのに
それだけ言うと、何も買わずに営業部の方へと歩いていく。背を丸めた様に歩くその姿勢に吉富は微かに眉を細め口元を歪める。
「言いたいことはないんですか?」
吉富の言葉など耳に入らない幸司はとぼとぼと歩いている。そんな幸司の態度に苛ついた吉富は幸司の前へと回り込みその足を止める。
「晴海は俺の女なんです。だから、課長には二度と彼女には触れさせない」
勢い勇んでそう言うも、幸司は吉富の顔を見て「そうか」と言うだけで表情を変えることなく再びとぼとぼと歩き始める。全く生気のない様子に、妖怪に魂でも抜き取られたのかと吉富は驚いている。
「美幸が……」
「え?」
「……何でもない」
何かを言いかけた幸司だが、美幸とその名を口ずさんだだけで口を閉ざした。そして目を細め、さも悔しそうな表情をしたかと思うといきなり笑いだす。
「課長、大丈夫ですか?」
「仕事に戻るぞ、戸田」
「いえ、俺は吉富ですが……」
重々しく歩くその幸司の足取りに、吉富は冷や汗を掻く。昨日までは何の変わりもなく普通な様子だったのに、この急変ぶりは何なのかと吉富は落ち着かない。晴海とラブホテルへ行ったのが原因ならば昨日の内に何かしらの態度に出る筈だ。
しかし、昨日は対して感じるものはなかった。
幸司より遅れて営業部一課へ戻った吉富が目にしたのは、いつもと変わらぬ幸司の姿だ。既に自分のデスクへ戻っていた幸司は資料を片手に晴海や相田へ指示を出し、何やら厳しい表情で怒鳴っている。
呆気にとられていると、今度はその吉富へと怒りの矛先が移る。
「吉富、どこへ行っていた!」
「いえ、さっきまで課長と……」
どこへも何も、ついさっきまで課長と一緒に自販機の前にいたのにと、この豹変ぶりに吉富は開いた口が塞がらない。幸司を心配しわざわざ後を追いかけたのにと思っている吉富は、少し腹立たしく感じると自分のデスクへと戻るとドカッと乱暴に椅子に座る。
「何をしている、吉富。企画の最終打ち合わせをするんだ。会議室へ集合だ。資料は忘れるなよ」
「はいはい、分かりました」
「返事は一度でいい」
「はーい」
吉富は幸司の表情を眺めてみるが、やはり、いつもと同じ幸司の表情をしており、さっきまでの沈んだ悲し気な表情はどこにも見当たらない。その一変する態度に驚いているのは吉富だけでなく、その場にいる皆が謎めいた顔をしている。