好きにならなければ良かったのに

「大石、どうかしたか?」

 いきなり名前を呼ばれてハッと気付いた美幸は、今、自分は新入社員として入社した会社で新人教育を受けていたのだと思い出した。

「すいません」
「勤務初日は緊張するからね。けれど顔色が良くないな」
「すいません」
「具合が悪い時は遠慮なく申し出ていいから」

 にっこり微笑みながら言う新人教育担当の香川は、その厳しい表情に遠慮なく申し出れる雰囲気はなく、つい『すいません』と言う言葉が出てしまう。

 美幸は何故こんな会社へ入社したのだろうと、幸司と晴海が同じデスクで仕事をする様子が目に入り後悔した。

 香川に呼ばれた美幸ともう一人の新人の佐々木満は、一先ず会議室へと案内され部屋を移動することに。

 営業部に長居したくなかった美幸には幸いなことだが、いつまでもあの二人から逃げられないと思うとこれからの仕事が憂鬱でならない。

 そして、会社での仲睦まじい二人の姿を自分の目で確認すると、これまで知らなかった二人の甘い日常を突きつけられているようだ。恋人同士の二人は同じ会社でしかも同じ部署の上司と部下。更には課長である幸司の直属の部下として恋人の晴海は仕事をしている。

 二人にはこれから愛を育んでいくその様を見せつけられることになる。これまでは会社へ出勤する幸司と、大学へ通う美幸との接点はなく、幸司の恋人との仲を知ることはなかった。しかし、これからは毎日、二人の見つめ会う姿を横目で見ながら過ごさなくてはならないかと思うと、これこそ生き地獄と同じだと思えた。

 幸司との望みのない生活がこれ程の苦痛を与えるものだと思うと心が苦しくなる。そして、今にも涙が流れそうになる。

 四年前、流した涙は既に枯れ果てたと思っていた。
 あの日、天国から地獄へ突き落とされた日に誓った。もう、涙は流さないと……だけど…………



「大石……大石!」

 再び名前を呼ばれハッと顔をあげて声が聞こえる方を見ると香川と佐々木が不思議そうな顔をして美幸を見ていた。明らかに呆れた顔をする香川と、困惑する佐々木の顔を見て美幸は急に恥ずかしくなり「ごめんなさい!」と、頭を下げた。

< 17 / 203 >

この作品をシェア

pagetop