好きにならなければ良かったのに
そもそも美幸が名乗っている名前は旧姓の大石姓だ。今は結婚して榊美幸(さかき みゆき)と名字が変わっている。だからと榊姓を探すも美幸の名前はやはり見当たらなかった。
「この件は私の方から人事部に確認を取ります。人事部からこちらへもう一度新入社員名簿を届けるように伝えましょう」
「ええ、お願いするわね」
幸司は美幸の方へとチラリと目をやると「気が付いたら戻るように言って下さい」とだけお願いして医務室から出て行く。
廊下へ出た幸司は『俺はわざわざ医務室まで何をしにやって来たのだ?』と、悩ましげに手で額を覆うと、この日何度目かの大きな溜息を吐いていた。しかし、溜め息を吐いたからと、この状況が変わる訳でもなく美幸の真意も分かる訳もなく、渋々と人事部の方へと向かうことに。
人事部へ向かいながら腕時計の針を確認し、今日の予定がどうなのか頭の中にスケジュール表を思い浮かべる。今日は特に重要な案件はなく営業部の企画会議もない。いつもに比べのんびりとした時間を過ごせる日だと考えると幸司は再び溜息を吐いた。
「俺はいったい何をしているんだ?」
ブツブツと独り言を言いながら人事部の部屋の前までやって来たが、ドアを開けようとドアノブに手をかけると医務室に横たわる美幸の姿を思い出してしまった。
何故急に倒れたのか、前日の美幸が自宅でどう過ごしていたのかを思い出していた。しかし、昨晩は夕食後には直ぐに書斎に籠ってしまった。書斎から出たのは美幸が眠った後の事だ。
自分の妻なのに昨夜の美幸が何をしていていつ眠りについたのかも知らない。
これ迄はどうだったのだろうかと、ふと考えた。勤務初日だから緊張の前夜だったのかいつもと同じなのかを比べようにも、比べるほどに妻の美幸を知らない自分がいる。
美幸の行動にチェックはしていたつもりだが、まるっきり無関心のような生活を送って来たのだと改めて感じた。
「榊課長? どうなさったんですか?」
背後から声を掛けられハッと気付いた幸司は、新入社員名簿の手違いの為に人事部へ来たことを思い出した。