好きにならなければ良かったのに
『妻』としての扱いは普通にしているし、家では『夫』としての役割は果たしているつもりの幸司だ。しかし、母親に美幸を大事にしているのかと問われ、即答出来ず少し言葉に詰まった。
昼間のトイレの前のあの場面が頭を過ったからだ。
恋人だった女を裏切り何度も泣かせては歪んだ顔をさせている。
一方、後継者の座が欲しくて得た妻とは、夫婦生活さえ上手くいかない。それどころか、意思の疎通が全く図れなくて妻が何を考えているのかさえ幸司には分からない。
「もしかして、美幸さんは体調でも悪いの?」
「そんなことは無いと思いますよ。昨日なんか遅くまで飲んで来てたから」
「お酒を?」
少し頭を捻る母親。幸司は余計な心配をかけたくなくて「同窓会ですよ」と、酒の理由を適当に答える。怪訝そうな顔をしていた母親だが、同窓会と聞くと表情も明るくなる。
「美幸の分まで俺が祝ってやるから、母さんは大人しくお祝いされてて下さいよ。さあさ、ほら、テーブルに着いて」
幸司が美幸と二人でやって来るものだと思っていたらしく、席に着いたテーブルには母親とは別に二人分の夕食のセッティングがされていた。
母親が腰を下ろしたその真正面に座る幸司。その隣の席のナプキンや並べられたフォーク類を見て、少し胸がチクリとする。
テーブルの下で、膝上に乗せた手には電話を持ち、指先でタップし美幸に『早く来い』とメールを送る。しかし、そのメールはその日、美幸の携帯電話に受信されることはなかった。
―― 所変わって…………
暗闇の街路樹は僅かに揺れ動き、擦れあう葉がカサカサと微かに音を立てる。微かに流れる空気は夜になるとまだ肌寒く感じる。しかし、一度居酒屋へと入ると、そこは別世界。厨房から煙ってくる炭火焼きの煙や匂いに客は話が弾み酒が進む。
吉富に捕まった美幸は例の居酒屋へとやって来ている。昨夜、会社帰りに寄った居酒屋だ。
美幸が案内されたのは、カウンター側の座敷を仕切り版で区切って作った個室ではなく、その奥にある完全な個室へと通されていた。
六人掛け程の長いテーブルに向かい合わせて座る二人。美幸は吉富に意味深な言葉を言われ、渋々着いてきたが浅はかな行動を取ったのではないかと落ち着かない様子だ。