好きにならなければ良かったのに

 机上に置いていた資料を持つと、席を立ち営業部から出ていこうとする幸司に、吉富と晴海の視線が動く。幸司に、これ以上声をかけられないそんな雰囲気に息を飲む。

 部屋を出ようとした幸司が戸口のところで振り返り、まだ、幸司のデスク前から動かない二人の姿を見る。

「吉富君、君の事務補助に日下を考えておいてくれ」

 それだけ言うと幸司は営業部から出ていった。

 思いもよらない幸司の決断に驚いたのは吉富だけではなかった。営業部にいる他の社員らも皆が予想外なセリフに目を丸くしていた。

「ねえ、今のどう言う意味なの?」
「さあ、でも、課長が日下さんを手放すなんて。あの二人はもう終わったの?」

 そんな会話は当然のこと晴海の耳にも入る。苛立ちが最高潮に達すると、晴海の顔は青くなったり赤くなったりとカメレオンのように様変わりする。そんな晴海を隣で見ている吉富は、何も言わずにただ晴海の肩をポンと軽く叩いて自分のデスクへと戻る。



ーーー その日の夜、残業することなく戻った幸司。

 夕食の時間には既に自宅へ戻り、ダイニングルームでは美幸と向かい合わせになって夕食を囲む。

 こんな時間に自宅に帰る幸司の姿も珍しいが、一緒に食事を取ること自体も珍しい。美幸は、いったい幸司に何が起きたのか、驚きで食事の手も進まずに、無言で食事をする幸司の顔を見ていた。

 美幸の視線に気付いた幸司は、無表情のまま顔を美幸の方へと向ける。

「食事しないのか?」
「え? あ、食べてるわ!」
「あまり手をつけていないじゃないか」

 幸司の言う通りで、昼間の会社の雰囲気が異様なものに感じていた美幸は、その『異様』なものが何かを突き止めることが出来ずに気になり、食事の手が進まない。

 慌ててフォークを掴むと、何れを食べようかとお皿を見渡す。その動きがあからさまに動揺しているのが分かる。

「今夜は早めに休むぞ」
「え?」

 幸司のセリフに思わずフォークを落とした美幸。

「早めに風呂に入ってベッドで待っていろ」
「あ、はい……」

 頬を少し赤く染めて俯く美幸。ベッドで待てと言われて平気な顔が出来る妻はいないだろうと、美幸は心臓がドキドキする。

 もしかしたら、今夜は幸司に抱かれるのだろうかと、そんなことを考えてしまった。
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