櫻の園
わけが、わからなかった。
どうして今さら。あの時、あたしがバイオリンを捨てたあの瞬間に、立ち会った人物。
『〜っ、それでいいの!?あなたは逃げてる!!』
「…元気にしてた?地元に、戻ったのよね」
「……」
「今は普通科に通ってるの?」
「…何の…用ですか」
無理やり絞り出したような声になった。その大部分が喉につっかえて、空中に出た声はとても小さいものだった。
電話の向こうで、相手が逡巡しているのがわかる。受話器を持つ手に、力が入らなかった。
「…何度か、手紙を出したのだけれど…読んでくれたかしら?」
「…手紙?」
そんなもの、受け取った覚えはなかった。声の調子から若松先生はあたしが何も知らないことを悟ったのか、そう、と一言だけ呟いた。
しばらくの沈黙が続いたあと、若松先生はまた何かを話しだしたがそれは耳に流れ込むだけで、もうよくわからなかった。どうして今さら。そんなことばかりが頭を巡っていた。
「バイオリンは、続けているの?」
「………」
「結城さん?」
「…やめました。もう、弾いていません」
棒読みのようにそう言いきると、若松先生はもう一度、そう、と言ったきり黙りこんだ。電話のディスプレイの、通話時間だけがどんどん増えていく。
もう切ります─、あたしが口を開こうとした、その時だった。
「…後悔してたの。あなたを、あんな風に責めることしかできなかったこと」
若松先生の、はっきりとした意志を持った言葉が、飛んで来たのは。
「あなたには才能がある。もう一度…頑張ってみない?」
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