櫻の園


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洲の自転車は真っ二つに夜を切り進むようだった。流れ行く夜風が、荷台に跨るあたしの頬をかすめる。

髪が頬にあたって少し痛かったけれど、不思議といやな気持にはならなかった。

洲の背中はあたしを覆い隠してしまうほど、とても広い。


「…特別な場所ってどこなの?」

「もうすぐ着くよ」


今からストリートをやりに行くから一緒に来い…そう言って、洲はあたしの手を取った。洲にとって、最後のストリートライブ。明日からは連日でバンドの練習で、こういった時間はほとんど持てないらしい。

─だから今日は、いつもの駅前でない特別な場所でやりたいんだ。

あたしは行き先も告げられず、ただ自転車の荷台に乗せられただけだった。


自転車の前カゴに入れられたバイオリンケース。

立ち込める闇と同じ色なのに、それは入り混じることなくぼんやりとその輪郭を表していた。



…どうして洲の申し出を断らなかったのか。その理由を尋ねられても、あたしにはうまく説明できない。


ずっとずっと無かったことにして、閉じ込めていたのに。

自分の情けない、暗い部分を鼻先につきだされるようで、あたしはずっと恐れていたのだ。

でも今この瞬間、ずうっと触れられなかったバイオリンのケースは、あたしと共にあった。


夜の闇の中。あたしはただ、洲の背中から伝わってくる体温にしがみついていた。


洲が自転車を止めたのは、駅の裏側の路地だった。

いつも吹いている場所よりも、明らかに人通りが少ない。灯る明かりもまちまちで、廃れてしまったような雰囲気に包まれたそこはずいぶんと薄暗かった。


「…ここ?」

「そうだよ」

洲は自転車のカゴからあたしのバイオリンケースを取り出すと、ひょいとあたしに手渡した。ずっしりとかかる、懐かしい重み。

一体何が特別なんだろう──?怪訝なあたしの顔からその思いを読み取ったのか、洲はケースからサックスを取り出しながら言った。


「ここ…初めて俺がストリートで吹いた場所なんだよ」


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