櫻の園

サックスを首にかけると、洲は懐かしげに目を細めて辺りを見渡した。


「まだある程度吹けるようになったくらいの時かな。いきなり駅前とか目立つとこでやる自信なくてさ」


だからここで…、そう言って洲は照れ臭そうに笑った。

キラキラと腰元で輝く黄金の楽器。それはまるで、彼の一部であるかのようにしっくりとなじんでいる。欠けてはならない、大切な彼自身。


『特別な場所』


…ここは、洲の原点なんだ。


あたしは息を吸い込むと、興奮にも似た気持ちで辺りを見渡した。洲の夢はここで始まり、ここで今…もう一度その瞬間が再現される。


洲がサックスを構える。

めいっぱいに息を吸い込む。


夜の闇。黄金に輝くサックスは、低く重みを持った産声を上げた。


「…あ」


(…『マイウェイ』だ)



 いま船出が 近づくこの時に ふとたたずみ 私は振り返る

 遠く旅して 歩いた若い日よ すべて心の決めたままに

 愛と涙と 微笑みに溢れ いま思えば 楽しい思い出を

 君に告げよう 迷わずに行くことを 君の心の決めたままに

 私には愛する歌があるから 信じたこの道を 私は行くだけ

 すべては心の決めたままに



途端に空気が、かき混ぜられたように動き出す。鳥肌が立つ。


薄暗いと思った周りの背景すら、今では計算された照明のように思えた。


道行く人が振り返る。

まるで足を奪われたかのように、数人がその場に止まった。


洲の音は、飲み込むように貪欲で包み込むように優しい。

…まるであの時と同じだった。学校を抜け出して、真っ昼間に街をさまよっていたあたしを惹きつけて離さなかった洲の奏でる音。


今、気づいた。

あの時からきっとあたしの心は、繰り返される音の波にさらわれていたんだ。



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