寿聖宮夢遊録
「夢など所詮でたらめなものさ。信じるに足らないよ。」
進士さまは全く取り合いませんでした。
「長城は宮の塀のことで、冒頓は特を指しているのです。進士さまは、特という人間を分かっているのですか。」
「確かに以前はとんでもない奴だったようだが、今は私に忠義を尽くしているよ。あいつがいなかったら、私たちもこうして逢うことすら出来なかったのだからな。」
進士さまは考えを変えるつもりはなさそうでした。
「そうですか。進士さまの言うとおりにしましょう。だけど紫鸞の意見だけはきいておきたいわ。彼女とは実の姉妹のようなものですから。」
私は紫鸞を呼びました。部屋に入って来た彼女に椅子を勧め、先程の進士さまの話を聞かせました。彼女は驚いて次のように言いました。
「長い間、楽しく過ごしてきたというのに、どうして破滅を早めるようなことをするの! 一、二ヵ月でも逢えたことに満足しなくてはならないのに、塀を乗り越えて逃げようなんて人のすることではないわ。あなたが逃げ出したならば、これまでの大君の御恩に背くことになるし、あなたに良くして下さった大君夫人を裏切ることになるわ。加えて、御両親にも禍が及ぶし、私たち西宮の者も皆、罪に問われるわ。そのうえ天に昇るか地に潜らない限り逃げ切ることは不可能よ。又、捕まった場合、罰せられるのはあなた一人だけではないのよ。夢については言うことはないけど、吉夢だったら逃げるつもりだったわけ? もう一度、落ち着いてよく考えて見て。あなたもやがて年を取り容姿も衰えてくるわ。それに伴い大君の関心も薄らぐでしょう。そして頃合を見て、病と称し長く臥していれば大君もあなたを実家に帰すことでしょう。そうなれば、あなた方二人は、何の気兼ねも無く晴れて一緒に暮らせるでしょう。いたずらに事を急いたところで、巧くはいかないわ。人は騙せても、天は欺く事は出来ないのだから。」 紫鸞の親身の説得に、進士さまも言うべき言葉が見つからず、涙をのんでそのまま帰っていきました。
いつしか季節は春となり、西宮の庭のつつじが満開になりました。その様子を繍軒で御覧になっていた大君は、宮女たちに五言絶句を作るよう命じられました。
それぞれの作品を御目を通された大君は絶賛なさいましたが、
「……ただ雲英の詩だけは、人を恋うる気持ちが顕著に出ている。前の詩もそうだったが、いったい汝の想い人は誰なのだ? 金進士の上棟文にも疑わしい一節があったが、まさか金進士では無かろうな。」
とおっしゃったのです。私は庭に下り、地に額を擦りつけ涙ながらに申し開きました。
「以前、大君さまが疑心を抱かれた時、その場で生命を絶つつもりでしたが、年が二十歳に満たず、父母にも見(まみ)えぬまま黄泉へ発っても現世に未練を残すと思い、今日まで過ごして来ました。今、再び御疑いを被った以上、どうして生き長らえることが出来ましょう。天地の鬼神が見張り、宮女五人一時も離れることが無いというのに、汚名が廻ってくる私は生きていても仕方がないのです。」
私は、絹布を取り出すと欄干にかけ首を括ろうとしました。と同時に紫鸞が口を開きました。
「大君さまが、こんなにも英明で罪の無い侍女に死を賜わるのでしたら、私たちは今後、二度と筆を執り詩作は致しません。」
大君は激怒なさってはいましたが、私が死ぬことは望んでいらっしゃいませんでした。そこで紫鸞に助命するよう仕向けられ、私の生命を取り留められたのでした。そして、詩に対する褒賞として白絹五反を私たち五人に下賜されました。
この話は、進士さまのもとにも伝わりました。以後、進士さまは再び宮中に出入りすることは無くなり、門を閉ざし床に臥したまま、日々、枕を涙で濡らしていました。そんな進士さまを見舞いながら特は言いました。
「大の男が、女との仲を裂かれたからといって、死ぬの生きるのと身体を病むのはつまらないことですよ。真夜中に、こっそりと宮中に忍び込み、女の口を綿で塞いで背負ってくれば、いいじゃないですか。」
「そんな危険なことが出来るか。誠意を尽くしてもう一度やってみるほかないさ。」
その夜、進士さまは西宮に忍んで来ましたが、私は病で起き上がれなかったため、紫鸞に出迎えさせました。
紫鸞が、酒を三杯ほど注いだ後、私は進士さまに封書を手渡しながら、こう告げました。
「もう二度とお会いすることはないでしょう。三生の縁も百年の佳約も今宵で尽きたようです。もし、まだ天縁が残っているのでしたら、黄泉でお目に掛かれるかも知れません……。」
封書を受け取った進士さまは、立ち上がると何も言わず、私の顔を見つめ、涙を流すばかりでした。この光景を見るに忍びなく思った紫鸞は、そっとその場を離れ、柱の陰に身を隠し、涙を拭っていました。
家に戻った進士さまは、すぐに封書を開くと目を走らせました。
進士さまは全く取り合いませんでした。
「長城は宮の塀のことで、冒頓は特を指しているのです。進士さまは、特という人間を分かっているのですか。」
「確かに以前はとんでもない奴だったようだが、今は私に忠義を尽くしているよ。あいつがいなかったら、私たちもこうして逢うことすら出来なかったのだからな。」
進士さまは考えを変えるつもりはなさそうでした。
「そうですか。進士さまの言うとおりにしましょう。だけど紫鸞の意見だけはきいておきたいわ。彼女とは実の姉妹のようなものですから。」
私は紫鸞を呼びました。部屋に入って来た彼女に椅子を勧め、先程の進士さまの話を聞かせました。彼女は驚いて次のように言いました。
「長い間、楽しく過ごしてきたというのに、どうして破滅を早めるようなことをするの! 一、二ヵ月でも逢えたことに満足しなくてはならないのに、塀を乗り越えて逃げようなんて人のすることではないわ。あなたが逃げ出したならば、これまでの大君の御恩に背くことになるし、あなたに良くして下さった大君夫人を裏切ることになるわ。加えて、御両親にも禍が及ぶし、私たち西宮の者も皆、罪に問われるわ。そのうえ天に昇るか地に潜らない限り逃げ切ることは不可能よ。又、捕まった場合、罰せられるのはあなた一人だけではないのよ。夢については言うことはないけど、吉夢だったら逃げるつもりだったわけ? もう一度、落ち着いてよく考えて見て。あなたもやがて年を取り容姿も衰えてくるわ。それに伴い大君の関心も薄らぐでしょう。そして頃合を見て、病と称し長く臥していれば大君もあなたを実家に帰すことでしょう。そうなれば、あなた方二人は、何の気兼ねも無く晴れて一緒に暮らせるでしょう。いたずらに事を急いたところで、巧くはいかないわ。人は騙せても、天は欺く事は出来ないのだから。」 紫鸞の親身の説得に、進士さまも言うべき言葉が見つからず、涙をのんでそのまま帰っていきました。
いつしか季節は春となり、西宮の庭のつつじが満開になりました。その様子を繍軒で御覧になっていた大君は、宮女たちに五言絶句を作るよう命じられました。
それぞれの作品を御目を通された大君は絶賛なさいましたが、
「……ただ雲英の詩だけは、人を恋うる気持ちが顕著に出ている。前の詩もそうだったが、いったい汝の想い人は誰なのだ? 金進士の上棟文にも疑わしい一節があったが、まさか金進士では無かろうな。」
とおっしゃったのです。私は庭に下り、地に額を擦りつけ涙ながらに申し開きました。
「以前、大君さまが疑心を抱かれた時、その場で生命を絶つつもりでしたが、年が二十歳に満たず、父母にも見(まみ)えぬまま黄泉へ発っても現世に未練を残すと思い、今日まで過ごして来ました。今、再び御疑いを被った以上、どうして生き長らえることが出来ましょう。天地の鬼神が見張り、宮女五人一時も離れることが無いというのに、汚名が廻ってくる私は生きていても仕方がないのです。」
私は、絹布を取り出すと欄干にかけ首を括ろうとしました。と同時に紫鸞が口を開きました。
「大君さまが、こんなにも英明で罪の無い侍女に死を賜わるのでしたら、私たちは今後、二度と筆を執り詩作は致しません。」
大君は激怒なさってはいましたが、私が死ぬことは望んでいらっしゃいませんでした。そこで紫鸞に助命するよう仕向けられ、私の生命を取り留められたのでした。そして、詩に対する褒賞として白絹五反を私たち五人に下賜されました。
この話は、進士さまのもとにも伝わりました。以後、進士さまは再び宮中に出入りすることは無くなり、門を閉ざし床に臥したまま、日々、枕を涙で濡らしていました。そんな進士さまを見舞いながら特は言いました。
「大の男が、女との仲を裂かれたからといって、死ぬの生きるのと身体を病むのはつまらないことですよ。真夜中に、こっそりと宮中に忍び込み、女の口を綿で塞いで背負ってくれば、いいじゃないですか。」
「そんな危険なことが出来るか。誠意を尽くしてもう一度やってみるほかないさ。」
その夜、進士さまは西宮に忍んで来ましたが、私は病で起き上がれなかったため、紫鸞に出迎えさせました。
紫鸞が、酒を三杯ほど注いだ後、私は進士さまに封書を手渡しながら、こう告げました。
「もう二度とお会いすることはないでしょう。三生の縁も百年の佳約も今宵で尽きたようです。もし、まだ天縁が残っているのでしたら、黄泉でお目に掛かれるかも知れません……。」
封書を受け取った進士さまは、立ち上がると何も言わず、私の顔を見つめ、涙を流すばかりでした。この光景を見るに忍びなく思った紫鸞は、そっとその場を離れ、柱の陰に身を隠し、涙を拭っていました。
家に戻った進士さまは、すぐに封書を開くと目を走らせました。