雪解け花咲く
屋上を見渡すが物一つ置かれてなく、柵は約160㎝の私の背丈の半分ほどしかない。もはや、この柵は防止柵の役目を果たさず、飾りとなっている。ここから人が落ちたら学校側の責任は免れないだろう。その柵を跨ぎ、真下を覗くと花壇沿いを歩く生徒たちが目に入る。楽しそうな姿を見ても悔しくはない。なろうと思えばなれたから、自分が望まなかっただけ。覚悟を決めた私は柵から手を放す。
「おい、待て。そこから落ちるな」と声を発した方向を振り返ると見たこともない男子生徒がこっちを見ている。さっきまでは確かに屋上には誰もいなかった。
誰だ? 友達ではない。そもそも、私に男の友人はいない。私を助けようとする理由はないはず。そうなると私の一番嫌いなタイプだ。
「偽善者気取ってヒーローぶるのやめてくれない? 自殺志願者助ける自分に酔うのは勝手だけど余所でやってよね」と皮肉たっぷりの台詞を私は決める。どうだ、参ったか偽ヒーローさん。
「いや、自殺は止めない。ただ、そこから落ちるのだけはやめてくれ。」
「だから、私の自殺を止めるのはやめてって言ってんでしょ」
んっ? 聞き間違いなのか、今この男は自殺を肯定した。私たちは今自殺をやめるかやめないかのやり取りを行ったはず。もう一度確かめる。
「私覚悟はもう決まってるから」
「うん、どーぞ」
男は表情を変えずに返事をする。
ナニイッテンダコイツ。
「下を見てみろよ、そこには何がある?」と男が言うから下を覗きこんでみる。
「人がいる」
「違う、花壇があるだろ! そこにお前が落ちてせっかく咲いた花が汚れたらどうするんだ」と言う男の顔は真剣そのものだ。
この男の考えをまとめるとこうだ。自殺をしようとしている女の子はどうでもいいが下に咲いている花が汚れるのは困るので場所を移せということだ。
この男本当に人間か? そう思う私の心中はきっと正しい。自殺をしようとしている人間が目の前にいるのだ。誰がそれを止めない。止めないとするならば前世が死神か魑魅魍魎の一味だけだろう。
とりあえず、目の前の悪魔の末裔を睨み付ける。華奢な私ができる精一杯の威嚇攻撃だ。どうだ、参ったか悪魔め。
男は口元を手で隠し小さく笑い始める。さっきまでとは打って変わって優しい表情だ。
「悪いな、からかって」
「この状況で冗談いうとかどういう性格してるわけ。本当に飛び降りてたらどうするつもりだったのよ」
「この状況だから言えたんじゃないか。君が自殺をしない確信があったから言えたんだ」
「私に死ぬ覚悟がなかったって言いたいの?」と言う私の声は先ほどよりも荒っぽい。どうもこの男が好かないらしい。
はぁー。とため息をついた男が言葉を返す。
「君の死ぬ覚悟なんて知らないよ。ただ、今から自殺しようとしている女の子が泣くとは俺には思えない」
「見てんじゃねーよ、バカ」と言う私は恥ずかしくてたまらない。生きてきて泣いたことなど私の記憶の中にはない。少なからず赤ちゃんの頃にはあったであろうがもちろん記憶はない。要するに今日流した涙は私の中では初めての涙。それを今日初めて会ったこの男に見られていた。生涯一生の恥とはこの事だ。
その生涯も今日までだけどね。
死ぬ前にこの男だけは殴らなければならない。そう決めた私は死ぬ覚悟をもって跨いだ柵を再び跨ぎ目の前の男の元へ歩いていく。
「待て待て待て、泣いているところは直接見てないから! 俯いて走っていく女の子を見てその後美術室に入ると画用紙が点々と濡れていたんだ。 泣いていると考えるのが道理だろ?」
殴りかかろうと振りかざした拳をおとなしく下ろして考える。確かにそうかもしれない。だが、自分の正当性を確信して疑わないこの男の憎たらしい顔を見ると認めるわけにはいかない。
しかし、ここで言い訳をしたところで不条理な言葉として簡単に返されるだろう。私は言い返さずに我慢を選んだ。こう見えて私は我慢強い。こういう失礼な人間も大人の余裕ってやつで軽く受け流してやる。
「なに、怒ってんの? 謝るならまだしも怒るのは見当違いだよ。君が流した涙のせいでせっかく書いた題名が滲んじゃってあの画用紙はボツ、それにあの画用紙が最後の一枚、おまけにあの作品の提出日は今週末。はい、何か言いたいことある?」
この男の勝ち誇った笑みに眉間が反応する。しかし、さすがの私にも罪悪感はある。
「ごめんなさい」
「許すには条件があるけどどうする?」という男はニヤニヤ顔が止まらない。
この男の言う事を聞くのは癪だが言うことを聞いて助けてやれば神様が天国で私を優遇してくれるかもしれない。たいして何もしてこなかった人生、最後ぐらい人助けしてやるか。
「いいよ、何でもいいから言ってみな」という私の返事に男はすごく満足げな表情、男がなにかを言おうとしたその時。
「華、ここにいたのか。こんなところにいてると怒られるから早く帰ろうぜ。って、誰それ?」
 またなんか増えたし。てか、今“はな”って呼んだけどもしかしてこの男私と名前が同じってこと?
 「わりぃわりぃ。この子に用事があるからって屋上に呼び出されたんだ」
 身に覚えはないが軽く流す。新しく来たこの男に自殺のことがばれたら面倒だから。今はとりあえず頭の中の整理から。
 「へぇー、んで用事ってなんだったの?」
 「俺この子と付き合うことになったからよろしく」
 声にもならない叫び声が空に広がる。男を見ると驚いてはいたが声は出ていなかった。どうやら、叫んでいたのはガラにもなく私らしい。
 脳内の処理が追いつかない。私はこいつと付き合うの?
 “はな”と呼ばれている男は私に近づいてきて耳元で囁いた。
「死ぬことは絶対に許されないからな」
その瞬間に頭の中が真っ白になった。心臓を手でキューと握りしめられた感覚に陥いる。その言葉はただの脅しに感じなかったから。先ほどまでの軽い口調とは違った。きっと頭ではなく心で喋ったから、これがこの男の本質、少し怖くなる。
俯いていた私は恐る恐る上を向く。
「半年間よろしくな」と言う男の顔は既に笑顔に移り変わっている。
そういうとドアの方へ歩いていく。そして、ドアの前で立ち止まると何かを思い出したかの様に振り返る。
「じゃあ、また明日なハニー」と言い太陽の様な笑みを残して去っていった。もう一人の男も納得しない表情で「またな」と言い“はな”の背中を追いかけていった。
 嵐のような時間が過ぎ去った。結局のところ口約束、死んでしまえば約束は果たせない。
屋上から柵越しに下を見てみる。手が震える。さっきは何も怖くなかったことが今は怖いと感じる。
それはきっとさっきの男の顔が言葉が頭の隅にちらつくから。
暗くて何もなかった世界に生まれたそれは、酸素か二酸化炭素か。
息を止めるのは容易いが私は息をすることを選んだ。
ほらね、ちっぽけな覚悟でしょ?
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