鬼麟
小さな声がした。無我夢中で底なし沼を掻き分けるような心地から一気に浮上し、気付いた時にはその声をかけてきた人に馬乗りになっていた。

胸倉を既に掴んでいて、遠くで自身の荒い呼吸を聞きながら、一切の初動なしで振り落とす拳。

瞬き一つすることなく、見極める赤い瞳。鼻先を掠めるように止まった拳に、彼は僅かに指先を動かしただけだ。

「なんでっ、……なんで止めないのっ」

私の荒れた呼吸と反対に、ひどく冷静に見上げられる。抜け出せるくせに、どうして甘んじて受け入れているのか。

焦る気持ちの捌けどころを探せど、見つかりそうもない。

ふと差し出された手に、てっきり殴られるかと思い、反射的に目を瞑ってしまう。しかし、待てども痛みは一向に来る気配はなく、代わりに頬に添えられた熱がいやに温かい。

「私は、殴ろうとしたんだよ。それなのに、なんで平然としてるの」

私から手を出したのに、なんて理不尽な問いかけなのだろうか。避けることもせずに、されるがままな彼に漏らすのは、不満という名の八つ当たりだ。
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