【第一章】狂気の王と永遠の愛(接吻)を

ダルド、狭き世界の中で

その頃、ダルドは着替えにと用意されていたバスローブをその身に纏い、裸足のまま遥か彼方の故郷の大地を目指して歩いていた。

(……これが人の毛皮……?)

ふわふわな銀狐の毛には及ばないにしても、柔軟な肌触りが心地良く、あたたかなものであることには違いなかった。
しかし、草を踏みしめるダルドの足の裏には冷たい雨露がじっとりとまみれている。せっかく湯殿で温まった彼の体は、冷えてしまった心のようにぬくもりを失っていく。

暗い森をトボトボと歩き続けるダルドは足元にまとわりつく己の影に気づき空を見上げる。

「……月だ……」

(ぼく……どうしてこんなに遠くまで来ちゃったんだっけ……」

かすかに残る仲間たちとの懐かしい記憶に想いを馳せるダルド。


――銀色の狐たちが、夜空から降り注ぐ月の光を道しるべに北の大地を駆け抜ける凛々しい姿がある。

その中を共に風をきって走るのは……まだ小さな子狐のダルドだった。

懸命に彼らのスピードについて行こうと、ダルドは息を弾ませ小川を勢いよく飛び越えていく。
だが、しばらくすると小さなダルドの手足は疲れ、徐々に重くなりつつあるが……周りを見渡せば楽しそうに笑い、どこかを目指す仲間たちの明るい声と笑顔に足取りは軽くなる。

『……大丈夫か? ダルド!』

『う、うんっ!』

先頭を駆ける、ふたまわりほど大きな銀狐が後方でやや遅れるダルドを振り返り、仲間へ速度を抑えるよう呼びかけてくれた。

『チッ……また子狐のダルドか!』

仲間の銀狐が不機嫌そうに舌打ちするのが聞こえてきて萎縮してしまう。

それからしばらく進んだあと、清流の傍で体を休める銀狐の群れの姿がある。
居た堪れなくなり、群れから少し離れた岩の上にいたダルドのもとへ、野生の猛々しさに磨きのかかった先ほどの彼が気遣うように傍へ腰を落ち着けてきた。

『ごめん、ぼくのせいでっ……』

『謝るなダルド。皆待ち遠しいだけなんだ』

そう言いながら首を持ち上げた強い彼は敵から群れを守るように、休息中にも周りへと目を光らせている。

『……待ち遠しい……?』

『俺たちの知らないこの北の大地の遥か向こう、その先を見てみたいのさ』

『……? その先には何があるの?』

『ははっ! 何があるかわからないからこそ俺たちは走るのさ。この広い悠久の地を自分の目で確かめたいんだ』

白銀一色の雪原の地を見渡しながらも、その向こうに広がっているであろう景色を夢に見る瞳は気高く輝いていた。
勇ましく低い声を響かせ、他のどの狐たちよりも美しく体の大きな彼が楽しそうに笑っている。

『……怖い敵がいたとしても?』

『当たり前だ』

迷いなく断言する彼はやはりかっこいい。
そしてそんな彼に比べ、気持ちも体も小さいダルドは不安そうに俯いてしまった。

『……ぼくは君のように強くないから、怖いよ……』

『いいかダルド。戦えなくても他に出来ることがあることを覚えておけ』

『え……?』

自分でも何かの役に立てるのだろうか?
そんな期待を込めて顔を上げるが、聞きたくない言葉が耳を突いて言葉を詰まらせる。

『若いお前はそう遠くないうちにこの群れの最期を見届けるだろう。
どんなに強くとも仲間なしに生きていくことは不可能だ。
お前を受け入れ、守ってくれる新たな仲間を見つけ、そいつの力になれ』

『……さ、さいごって……? そんなの考えられないよっ……』

気の弱い自分が最後に残るなど想像にも恐ろしく、考えただけでも押しつぶされてしまいそうな先の未来はダルドにとって苦痛でしかなかった。
すっかり頭と耳が下がり、震える子狐を鼻先で撫でながら笑う彼。

『ダルド、見えないものに怯えて悲観するな。希望を持て。
それに俺もあいつらもまだまだ若いからな! すぐには死なんさ!!』

彼の想像する未来は希望に満ちているからこそ、こうして明るく笑い飛ばせるのだろう。
不安も悲しみも吹き飛ばしてくれそうな……その力強い彼に引き寄せられるようにダルドの眼差しも少しずつ上を向いていく。

『……この地を抜けた、その後はどうするの?』

(彼の話をもっと聞きたい……ぼくは彼と一緒に、生きていきたい)

『生きてる限り終わりなんてないさ。大地をめぐるその中で自分が何をすべきかを見極める!』

『……うんっ!』

(生きている限り終わりなんてない……自分が何をすべきかを……)

まだ小さなダルドだが、彼がいかに素晴らしい考えを持っているかがよく伝わってきた。
夢を話す彼の瞳は輝いており、その切れ長の眼差しは遥か遠くのまだ見ぬ未来と大地へと向けられている。

明確な意思をもち、大地を駆けぬける彼らはとても美しかった。

漠然と思い浮かべる程度のダルドにとって遥かな地を目指すことはあまり意味のない事だったが、仲間とともに駆ける大地は、とても……とても楽しかったのだ。


――そしてある時、目を覚ましたダルドが見たのは……


昨晩、ともに駆けていたはずの仲間の死だった。いつしか幼いダルドに舌打ちしていた少し意地の悪い先輩銀狐だった。
そしてそれはダルドが成長するにつれ、その光景は珍しいものではなくなっていった。

終いには自分と同じくらいの銀狐までもが冷たくなって動かなくなってしまったのだ。

『みんな……? どうしちゃったの?』

戸惑い、悲しみに暮れるダルドは自分を守り、いつも傍にいてくれた体の大きな彼へと近づいた。

『命の終焉は寿命だけじゃない。病がそれを早めることがある』

勇ましかった彼の威厳のある声はわずかにかすれ、美しかった毛並みもいくぶん艶が失われている気がした――。
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