神様修行はじめます! 其の五
 そうしている間にも貴重な時間は、容赦なく過ぎていく。


 薄暗い部屋に電気が灯り、しばらくして玄関が開く音がして、聞き慣れた足音が廊下を通った。


 お父さんが帰ってきたんだ。


「里緒ー。お父さんが帰ってきたから晩御飯にするわよー」


 いつも通りに、あたしを食卓に呼ぶお母さんの声。


 こんな風に呼ばれるのも、これが最後だと思うと胸がギュッと苦しくなって、なかなか立ち上がることができない。


「さあ小娘、行ってこい」


 子猫ちゃんから片時も離れないまま、絹糸がポツリと言う。


 あたしは唇を噛みしめながらなんとか立ち上がって、ふたりを残して部屋を出た。


 ダイニングにはお母さんの手料理の匂いが漂っていて、中に一歩踏み込むと、テーブルに着いたお父さんとお母さんの姿がある。


 テレビから聞こえる音や、夕刊を見てるお父さんに、「新聞読みながらご飯食べるのやめてよ」って文句言ってるお母さんの声。


 それはあまりにも愛しくて、特別すぎる普通の光景で。


 あたしの足は、そのままどうしても動かなくなってしまった。


 このままずっとずっと、永遠にこの光景を見続けていられたなら……。


「里緒、なにしてるの? 早くこっち来なさい」


 お母さんに催促されて、あたしはノロノロと席に着いた。


「いただきます」って言って、お箸を持って食べ始める。


 でも胸が一杯で、食べ物がノドを通ってくれない。


 これが家族で囲む最後の食卓で、もう二度とお母さんの手料理を味わえないんだと思うと、お箸もうまく動かせない。


 お箸の持ち方……。結局、どんなに教わっても正しい持ち方ができなかったな。


『そんな変な持ち方をしていると、お嫁に行ったら恥をかく』って、何度も注意された。


 その度にあたしは、『お嫁になんか行かないもーん。ずーっとお父さんとお母さんと一緒にいるから』って、得意になって答えてた。


 お味噌汁の味。白米の味。炒め物の味。酢の物の味。


 一口ずつ口の中に運んで無理に飲み込むたびに、目の奥が熱くなって涙が滲み出てくる。
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