近すぎて
『……慎司?』

器械を通しても不安そうな声が、自己嫌悪に陥りかけていた俺を引き上げる。
一年で足りないのなら、あと二年でも十年でも待てばいいだけ。たったひと月も答えを待てないような、いけ好かない同僚などには負けられない。

『悪い。必ず行くか……ら?』

エンジン音に混じって、硬質な音が携帯を当てている方とは逆の耳に届く。その方向に顔を向ければ、有喜さんが車の窓を叩いていた。
なにかを言っているようだけど、ガラス越しではよく聞こえない。
凍える寒さの中、前掛け姿の薄着で立つ彼女に慌てて車外へ飛び出す。

「……から、泊まっていったら?」

急に明瞭になる声。
吹き付ける雪とまだ完全には指先の感覚が戻っていなかったせいで手が滑り、携帯を雪の中に落としてしまった。
拾い上げた画面は真っ暗で、電源を押してもなんの反応もない。電池切れだ。

「どうしたんですか」

有喜さんは片手で差す傘の中に俺も入れ、もう一方で抱えていた一升瓶をずいっと出した。

「ウチの人が、これを持って行けって。間に合ってよかったわ」

反射的に受け取ってしまった日本酒のラベルを見て目を瞠る。製造量が極端に少なく、通の間では幻の銘酒と呼ばれている逸品だ。

「こんな貴重なものをいただくわけには……」

「いいのよ。あの人は蔵元と知り合いだからまた手に入るし。久しぶりに若い人とお話できて楽しかったから、そのお礼なんですって。遠慮なんかしないで受け取ってちょうだい」

押し問答をしている短い間にも雪は降り続け、結城さんの赤い傘はみるみるうちに白くなっていく。
このままではふたりとも風邪をひきそうだ。丁重にお礼を言い、ずしりと重い瓶をいただくことにした。

「すみません。それと、この辺にコンビニってありますか」

「うーん、ないわねえ。小さなスーパーならあるけれど、もう閉まっちゃったかしら。なにか必要?開けてもらうように電話してみましょうか」

「……いえ。大丈夫です」

コンビニもない町の小売店に、携帯型充電器が置いてあるとは思えない。猪野家の電話を借りたところで、さすがに薫の携帯番号までは覚えていない。
足掻く事ことを素直に諦め、一秒でも早く東京に帰る方を選ぶ。

腕時計の文字盤が視界に入り、気ばかりがいっそう急いていく。
そんな様子に気づいたのか、有喜さんは一升瓶と一緒に携帯を握りしめたままの俺の手元に視線を落とた。

「そう。雪が酷くなりそうだから、よかったら泊まっていってもらおうと思ったんだけど……」

すべてを悟ったように頷く。

「この近くは温泉もあるし、今度は彼女さんとゆっくりいらっしゃい」

げに恐ろしきは年の功。心の中を見透かされ、周囲は氷点下だというのに妙な汗がふきだす。

「ありがとうございます。いつかぜひ、婚約者と一緒にお邪魔させてください」

願いを実現するため言霊にする俺に、有喜さんは季節を飛び越えたかと錯覚するほど暖かな笑みで応えてくれた。









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