明け方の眠り姫


「行ってきましたよ、お二人に乗せられて。フランス語なんてさっぱりなのに」



厭味を込めた笑顔でカウンターの上に絵葉書を乗せると、ひくっと綾ちゃんの顔が引き攣った。


マスターの方は素知らぬ顔で、その絵葉書に手を伸ばす。



「お役に立てたようで、何よりです。夏希さんもご一緒に戻られたのではないんですか?」

「まだもう少し向こうで仕事があるからって、僕だけ一足先に帰ってきた」

「そうですか」

「ねえ。わざとだよね? わざと、もうフランスから帰らないみたいな言い方したよね?」



僕がそう言うと、彼はきょとんと惚けた表情で首を傾げた。



「……失礼。何か勘違いさせましたか?」

「あの店を閉めて、フランスで仕事をするって言われたら誰だって帰って来ないもんだと思うだろ?!」

「それは、申し訳なかったです。私の言い方がまずかったようで……」



普通ならこんだけ咎められれば、訳が分からず少なからず混乱くらいするはずだ。


まるきり狼狽えた様子がない、それが証拠だ。
絶対、確信犯だ。


顔色を悪くして気まずそうに目を逸らす綾ちゃんが、可愛らしく見える。
それくらい飄々としたマスターの顔は小憎たらしい。



「マスター……白々しいですよ」



それ以上の追及は諦めて、軽く睨みを利かせるとマスターは眼鏡の奥で食えない笑みに目を細めた。



「まあ、それで夏希さんとお会いできたなら良かったじゃないですか。どうぞ、座ってください、お詫びに今日は奢りますよ」

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