人肌が恋しいから、鍵を握る
「隣が空いてるから勝手に座ってみたけどいいかな」
一杯だけと決めていたはずなのに既に二杯目のキールだった。都心の夜景とやらを視界の端に映しながらグラスに口をつけたところで、空いていたはずの隣の席が埋まった。
ビジネスマン達で賑わっていた空間から適切な距離を取っていたはずのカウンター席。咲夜の隣だけでなくその隣の席も空いていたのに、ひとりの男がその空席を埋めている。
女がひとりで飲んでいればこういうこともあるだろう。舞い上がるわけでも落ち込むわけでもなく咲夜は冷静に視線をグラスに戻した。
「いつもあんなに早く走っているの?」
男の言葉につい反応してしまう。
「ジムで走ってましたよね。時速九キロ。女の人にしてはハイスピードだった」
フィットネスに人は疎らだった。こんな男がいただろうか。同じタイミングで走っていた人間はいなかったはずだ。
「スピードまで見えたの?」
「背中が綺麗だったからつい見惚れちゃって。近くまで行って眺めてました」
背中。自分の背中を意識したことはなかったけれど、誉められるのは悪くないと思えた。しかしフィットネスセンターで声はかけないくせに、此処では隣に座るのか。夜が人を変えるのだろうか。女がわざわざ部屋から出てきたように。男もわざわざ背中に声をかける。
「今は背中を隠しているのによくわかりましたね」
咲夜は黒のタートルネックのニットワンピースに着替えていた。控えめな照明の店内で背中を区別できるとは思えない。
「わかりますよ。今度は幸運を逃がさないようにと勇気を振り絞りました」
「背中以外も気に入ってもらえるといいけど」
男の見た目は悪くなかった。咲夜より年下にも同じくらいの年齢にも見える清潔感のある男。
「今は真っ先に左手を確認したんですよ。薬指は空席。僕の幸運はまだ続いてる」
上手い台詞だ。女との会話に慣れている。嫌悪感は無い。むしろ少しだけ興味がわいた。それに瞬時に男の左手を確認したのは咲夜も同じだ。
「ちなみに僕もここは空席です。今夜はたまたまというわけでなく万年空席」
ひらひらと左手を翻している。咲夜は思わず笑った。
「それを私が信じると?」
「信じてもらいます」
どうぞ、と上着のポケットから取り出したものを咲夜に差し出した。どう考えても名刺だ。鷹野祐希とある。それから誰でも知っている有名商社の名前。
「僕の名刺です。そこに電話して僕に扶養家族がいないことを確かめてもらってもいいです」
そこまでするのかとまた笑いがこぼれる。本人確認のためと言って運転免許証まで出す始末だった。もういいからと咲夜が言ってようやく鷹野という男は免許証を仕舞った。年齢はすぐに計算できた。咲夜のひとつ年下。
「ご丁寧にありがとう。私は名刺を持ち歩かないけど」
下の名前だけを名乗る。嘘は吐かなかった。左手に触れる彼の名刺がそうさせた。
「どこから来たんですか?」
最初は質問の意味がわからなかった。どこから?少し考えて腑に落ちる。ここは都内のホテルのスカイバーでフィットネスセンターは宿泊客の利用限定。都内の人間である可能性の方が低いわけか。
「東京都」
「まさかこのホテルに住んでる?」
「まさか。近所のスーパーの福引きで宿泊券を引き当てたの」
これくらいの嘘は許容範囲だろう。虚しい真実を打ち明けなければならない正当な理由なんてない。
鷹野は楽しそうに笑っている。この時期に都内の高級ホテルでたったひとり酒を呑んでいる女がそんなに面白いのだろうか。
「あなたは?商社マンなら出張中?」
「家なき子だからここに避難中」
「このホテルに避難?随分景気がいいんだね」
鷹野はまた笑いながら彼の手元のグラスの中身を空にした。同じものを言葉ではなく仕草でオーダーしている。こういう場所に慣れているのだろう。
「一昨日赴任先から戻されたんだ。年明けから本社に戻るんだけどマンションの手配が遅れて家なき子。で、福利厚生を最大限に利用してる」
「福利厚生にこのホテルが?」
「長年溜めたポイントをここぞとばかりに使って」
ジョークなのか真実なのかわからないけれどその切り返しには好感が持てた。
「咲夜さんの部屋から東京タワーは見える?」
「うん。ちっちゃいけど見えたよ」
「いいな。僕の部屋は逆方向で見えないんだよね」
「東京タワーが見たかったの?」
「せっかく日本に戻ってきたから」
聞けば鷹野はモロッコ勤務から戻ってきたという。モロッコ。咲夜は白い壁の街しか思い浮かばない。
「綺麗な街だよ。咲夜さんが興味あるなら今度一緒に行く?」
「あなたと?」
「そう、僕と」
非の打ち所のない笑顔だ。きっと世界中の女が騙される。聖夜を間近に控えた今時分なら尚更だ。
やめておく、と咲夜が答える。でも僕はやっぱり東京タワーが見たい、と鷹野が言う。
咲夜の部屋から見える小さな東京タワーを見たい、ともう一度繰り返した。