不器用な彼氏
ホッとしつつ、湯船の中で、そっと海側の縁まで移動すると、ちょうど肩くらいにある木枠に両腕をのせ、ガラスに額をくっつけて、その向こうにあるであろう海を眺めてみる。

最も、この時間では、波の音だけで、海は全く見えないのだけど…。

…この気持ちは何なんだろう?と思う。

あそこまでハッキリと、あの口下手な海成が言葉に出してくれているのにも関わらず、このモヤモヤ感。
不安?嫉妬?

だって過去など誰にでもあることは、もうこの歳でわかりきってること。

そもそも彼女は既に既婚者であり、今から何かが、起りうるわけではない。
…なのに、なぜ?

小さくため息を吐くと、モヤモヤ感を拭い去るように、パンパンと、顔を叩く。

よく考えたら、私たちはまだ、恋人としての一線を越えてはいない。
…今夜、海成に抱かれたら、この気持ちも解消するのかもしれなかった。

そう思い至ると、意を決して湯船から出て気持ちを切り替え、軽く身体を流して、脱衣所に向かう。

先程まで着ていた自前の浴衣は、出来るだけ丁寧にたたむと、今度は宿の浴衣に袖を通す。

海成の着ていた柄と同じく市松カスリ柄で、色は男性とは違って、少し深みのある臙脂色。
帯も併せて深みのある濃紅色のものだった。

鏡の前で髪を乾かしながら、ふと理香子さんの真っすぐなストレートの黒髪を思い出す。

30代半ばであそこまで綺麗であるなら、20代前半の彼女は、どんなに美しかったのだろうと、無意味な想像力まで働かせてしまう。

ここまでくると、重症だ…。
もう、何も考えられなくなるくらい、早く海成の腕に包まれて、忘れたかった。
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