不器用な彼氏
『同じ建物内にいるんだ。いつだって会おうと思えば会えるだろう?』

たった1階の違いが、今はすごく遠くに感じる。

『…それに、俺にとっては、ちょうどよかったのかもしれねぇ』
『…?』

廊下の先で執務室のドアが開いた音がした。誰かが来る。

『待て』

彼がポケットから小銭を取り出し、自動販売機で飲み物を2本買う。

『…どういう意味?』

何だろう?妙にドキドキしながら彼の次の言葉を待つ。取り出したペットボトルの一本を私の手のひらに乗せると、

『ドキドキすんだよ、お前の隣にいると…仕事に集中できねぇ…』

“ドキッ”

『…それって』

こちらに向かう足音が大きくなる。

『察しろ、バカ』

顔をそむけて、私の頭に大きな手のひらをポンと優しく乗せると、何事もなかったように執務室に向かって歩いていく。

途中、すれ違った諏訪ちゃんに『あ、進藤さん、櫻木さん知らないですか?』と聞かれ、いつものように素っ気なく『そこの自販機』と答える声が聞こえてくる。

自分の心臓の音が、諏訪ちゃんに聞かれてしまうのではないかと、心配するほど早音を打っている。

『あ、いたいた!櫻木さん、お客様来てます…って!どうしたんですか?その顔??』
『え?なんか変な顔してる?』
『いや、なんか真っ赤ですよ?熱でもあるんじゃ…』

諏訪ちゃんが心配そうにのぞきこむ。
2人が付き合っていることは、まだ諏訪ちゃんにも内緒。

『ううん、大丈夫よ』

いぶかしがる諏訪ちゃんに、心の中で(ごめんね、もう少し二人だけの秘密にさせてね)と謝りながら、廊下を進む。手のひらには、私が前に『これ美味しい』と言ったピーチローズティー。

『覚えてたんだ…』

そう呟きながら、ふたを開けると、桃の甘い香りが鼻先をくすぐり、思わず頬が緩んでしまう…。
< 50 / 266 >

この作品をシェア

pagetop