副社長は甘くて強引

 しゃぶしゃぶ用のお鍋に張っただし汁は、すでに湯気が立っている。まずは野菜からと、箸を手にすると佐川が私の動きを制した。

「初めは肉から。肉のうまみが出たら野菜を入れる。すると野菜がさらにおいしくなって……まあ、ここは俺に任せなさい」

「はい。お願いします」

 鍋奉行と化した佐川が霜降りの薄切り肉をだし汁にくぐらせると、一瞬のうちに赤いお肉が桃色に変化した。

 ひとり暮らしをしている私が買い求める肉は、スーパーで売られている百グラム百九十八円の豚肉。それを生姜焼きにして千切りキャベツと一緒に食べるのが好き。

 でも今は、目の前の高級牛肉に釘づけだ。

「どうぞ」

「ありがとう。いただきます」

 佐川が私のお皿にのせてくれたお肉を口に運ぶ。

「ん~、おいしい!」

 やわらかい肉のうまみが口いっぱいに広がり、思わず両手で頬を押さえた。そんな私を見た佐川があきれ顔を浮かべる。

「単純だね。最近、沈んでいたのが嘘みたいだ」

 仕事終わりに飲みに誘ったのは、お酒を飲みたかったからではなく、私を元気づけるため?

 佐川の優しい心遣いに胸が熱くなる。

「私が落ち込んでいるって、気づいていたんだ」

「まあね。だって大橋ってすぐ顔に出るし」

 しゃぶしゃぶしたお肉を味わっていた佐川が箸を置く。そしてテーブルの向かい側から片手を伸ばし、私の頬をムニュッとつまむ。

 もう、私の顔で遊ばないでほしい。佐川の手を払いのけると、心の中に燻(くすぶ)っていた思いを彼にぶつけた。

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