緋女 ~前編~
「さて、行きましょう」
私の気遣いを嫌味な一言で否定した彼が、改めて言った。
私もやけくそにうなずく。
「えっと、けっこう近い?」
「そうですね、真面目に歩いていたらもう間に合わないです」
「はっ? じゃあどうすんの?」
「飛ぶんですよ」
これには私も適当にはうなずけなかった。
「ダメっ。陛下と約束したことを守れなさそうだからって、ここから身を投げるなんて………絶対ダメよ?」
あわてて彼にいい募ると、彼がわざとらしくため息をつく。
「だれも身を投げるなんて話してませんよね」
確かにそうなのだ。
早合点した自分は、気恥ずかしさと八つ当たり半分半分で問う。
「………じゃあ飛ぶって何?」
「こういうことです」
私から離した手を自分の手に絡める彼。
「えっ⁉」
「しっかりわたくしの手を握っていて下さい」
その言葉に戸惑いながら、私はそれでも握り返した。
それだけで満たされた感覚は、昨日で最後と思っていた。
私の手を確認した彼は、もう片方の手で自分の瞳を隠す。
外れた手に横目で見た彼の瞳が、作り物のような黒をしていたように見えたが、それも一瞬。
北の塔の部屋は誰もいなくなっていた。