シュガーベット
6
驚いたように、君は俺を見上げる。
焦る。話なんて、もうないのに。
『やっぱりこの傘、持って帰りなよ。明日の朝、また降るかもしれないし。』
くだらない。こんなネタで繋ぎ止めようとする自分に、ますます焦る。
『明日も今日くらい降ったら、折りたたみ傘なんかじゃ防げないよ。』
君の表情が、驚きから怪訝に変わる。
そりゃそうだよな。引き止めておいて、そんなことどうでもいいわって感じだよな。
情け無い俺は。痛いほどそう分かっていても、今更引けなくて。
『だから、この傘は持って帰っ、』
「あの。」
タクシーから伸びてきた手が、俺が差し出す傘を押し返す。
前髪は、耳朶にキチンと収まっていた。
おかげで、何にも邪魔されずに目元が見えた。必要以上の装飾がない、誰にも不快感を与えない。
「明日も雨です。今朝の予報で、今週はずっと雨だって言ってました。」
とても、綺麗な目元だと思った。
『・・・それならやっぱり、』
どこからかクラクションが聞こえた。
それでも目が離せなかった。
矢島の言っていた、「吸い込まれる」という言葉を思い出した。
「だからこそ持って帰ってください。」
『は?』
「だから、岩田さんが持って帰って。」
出しますよ、と。
運転手の苛立った声が聞こえた。
「ごめんなさい、待ち合わせしてるんです。」
失礼します、という君の声は閉まるドアに塞がれて最後まで聞こえなかった。
あっさりと走り出したタクシーを見送りながら。
俺は、突きつけられた難問の回答にただ立ち竦む。
“良かったらこれ。”
“もう一本、あるんです。”
“明日も雨です。”
頬が燃える。
“だから、岩田さんが持って帰って。”
もうずっと遥か向こう、君を乗せた赤い光が見えなくなっても、この場を動けない。
問題は、その相手が俺だったってこと。
下世話な話、彼女にとって俺が全くの対象外であることは明白で。
そんな俺に対しても、彼女が“そうであった”ということ。
当たり前に、自分よりも人を思い遣る。
それが例え、赤の他人であったとしても。
彼女は、可愛いんじゃなくて。
綺麗なんじゃなくて。
美しい、んだ。
彼女の一番美しい部分を目の当たりにしてしまって。
やられた。
意識が君に墜落していく。
容姿とか薄っぺらな相性とか、そういうものだけが尺度だった世界が。
君を知って色を変えた。
可愛い、綺麗は何回となく味わってきたけれど。
人に美しさを感じたことはこれが初めてだった。
それから、君は知れば知るほど美しかった。
こんな風に人を好きになる事なんてなかった。
その分、どの君も消えずに深く刻まれていく。