聖夜にセレナーデ
「大変不躾ではございますが、ピアニストの林道春妃様でいらっしゃいますか?」
「はい、そうですが…?」
「これは、大変失礼な事を致しました。
調律は、3ヶ月前にしたきりですが、宜しければ、どうぞご自由に弾いて下さい。ピアノも喜びます。」
「え、あの、チーフ…?」
「いいんだ。」
嘘でしょ。
満足そうに頷いたチーフの一存で、彼はピアノに座った。
もう2度と聴くことはない、そう思っていたのに何でこんな事になっているのだろう。
どうして彼は私の働くこのホテルへやってきたのだろう。
突然現れた彼に頭の中は静かに混乱している。
混乱しながらも、1つだけ強く私の心をゆさぶっているのは、彼に愛する人がいたという事だ。
愛する人という事は恋人だよね。
悲しい、そんな気持ちよりも、驚きしかなくて。
ただただ、ピアノに向かう彼の背中を呆然と見つめ、立ち竦むしかない。
私ではない、恋人に向けた演奏。
そんなの、聴きたい訳がない。
今すぐに仕事を放ってこのホテルから飛び出したい。
それが無理なら、フロント奥の事務室へ籠って耳を塞いで蹲っていたい。
でも、金縛りにあったように身体が動かない。
「本当に私の事忘れたの…?」
春妃の背中に向かって呟いた言葉は、彼の音にかき消された。
天井の高いロビーに響く至極の音色。
それは、昨日彼が自身のコンサートのアンコールで弾いた曲。
私、社会人失格だ。
気がつけば、仕事もせずに彼の演奏を彼の隣で聴いているんだから。
1人、また1人と彼の演奏を聴く人が増えていき、あっという間にピアノの周りには多くのお客様で囲まれる。
輪の中にはピアノを弾く彼と、その演奏を隣で聴いている私。
周りを囲まれていてもかまわずに考える。
彼はきっと、この聴いている人達の中にいるであろう、恋人の事を考えながら作曲したんだろうなって。
凄くすごく大切に思っている事が伝わってくるから。
…ねえ、どうして春妃の恋人が私じゃないの?
どうして?
30年間生きてきて、いろいろつらいことあったけれど、何よりも、今この時が1番辛いかもしれない。
私じゃない誰かが春妃に愛されていると思うと、言葉に出来ないほどの悲しみが心を貫く。
今回ばかりは、弾いている人の気持ちを演奏から汲み取れるほどの音楽の教養がある自分を呪う。
普段の生活では何も役に立たないくせに、こんな時ばかり辛い思いをして、私は何の為に音楽をやっていたの?
どんどん卑屈になっていく。
春妃しか愛した事がない私にとっては、初めての失恋で、どうやって処理していけばいいか全く分からない。
とっくの昔に音楽なんて嫌いだと無理に自分に言い聞かせて音楽とは絶縁してしまったはずなのに、
目の前で見せられ、聴かされているのは他人に向けられた音楽のはずなのに、
この人の演奏だけは嫌いになれないんだから、本当にどうしていいか分からない。
寧ろ、もっと引き込まれて好きになっていく。
ねえ、どうしたらいいの?
やっぱり春妃、貴方って残酷よね。
そう思いながら俯き、涙を流した。