聖夜にセレナーデ
聖夜にセレナーデ
いつも彼の演奏は私を包み込んでくれた。
こんな気持ちになっている今だって、いつもと変わらず私を包み込んで儚く消えていく。
そして残るのは温もりを持った余韻なんだ。
気付かれないように後退りして、俯いていよう。
お客様の幸せを1番に考えなきゃならないけれど、彼が恋人と微笑みあう姿なんか見たくもない。
完璧に社会人として失格だけれど、いつも精一杯働かせてもらってるから、神様、今回だけはごめんなさい。
そう思っていたのに、彼はピアノから立ち上がっても一向に動く気配がない。
彼が動かない限り、私も動けない。
彼に気が付かれてないのなら、最後まで私だと気付かれたくない。
気付かれて余計な気を使わせてしまったら、惨めすぎるし、もうこのホテルで働けなくなるかもしれないから。
私の事を忘れたまま隣を通り過ぎてほしい。
そう思った。
ーーカツッカツッ
視界に入って来たのは黒光りしている革靴…
「もう結婚した?」
10年前と変わらない声が頭上から降ってくる。
私に言ってるの?って少しだけ思ったけれど、そんな訳無いかなんて、軽く受け流す。
「華波。」
…今、私の名前呼んだ?
いや、だからそんな訳無いよね。
ありえない、聞き間違えか。
つい今まで、恋人の為に作った曲弾いてたんだもん。
私を呼ぶはずが無い。
そもそも、忘れられてたはずだし。
好きすぎて彼に名前を呼ばれたなんて勝手に脳みそが勘違いしたんだ。
自分の馬鹿さに呆れる。
「華波、顔を上げてくれないか?」
「え?」
やっぱり今私の名前…。
その時、私の意志が追いつく暇も無く、頬に暖かさを感じたのと同時に、大理石の冷たい床しか見えていなかった視界が開けた。