聖夜にセレナーデ
10年ぶりに間近で見る彼の顔。
前よりも男らしくなった彼の、前みたいに強い意志を伺える漆黒の瞳に捕らえられて、頭が上手く働かない。
そんな私に、彼はその瞳を揺らしながら再び問いかけた。
「華波、結婚した?」
普段の私だったら、貴方のせいで結婚なんか出来てないわよ、失礼な人ね、なんて一言も二言も言っていただろうけど。
ーーフルっ。
1度だけ、微妙に首を振る。
頬から滑り落ちた彼の暖かな手が向かった先はポケットの中。
「ふー。」
彼の深い吐息が聞こえる。
「ごめんな。」
その意味がよく分からなくて彼の目を見つめる。
ただ、不安だった。
「待たなくていい。
そんな言葉を残した俺を待ってくれて、''ありがとう''なんて思い上がりで最低なこと言えないから。」
「思い上がり?」
そんな事無い。
貴方は何も悪くなかったじゃない。
夢を追いかけただけ。
その夢を私はずっと応援していたの。
「私は貴方を、春妃をずっと待っていたのよ。」
思わず言ってしまった。
絶対に言わないと思っていた言葉を。
彼の目が見開かれる。
「本当に…?」
「本当にって、私の気持ちを疑うの?
30にもなって結婚どころか、恋人の1人もいないのよ、貴方と違って。」
「いや、すまない。
だが、俺に恋人とは何だ?」
怪訝そうに私を見つめてくる。
「さっき、愛している人にサプライズで弾きたいと言っていたのは貴方でしょ?」
「華波だけど?」
「へ?」
「だから、俺が愛しているのは今も、昔から、華波だけなんだけど。」
「う、そ…。」
「華波こそ、俺の気持ちを疑ってるじゃないか。
さっきの曲、何だと思う?」
「何?」
「セレナーデ。」
「華波を思いながら作曲して、演奏してた。」
そんな事言われたら…。
「昨日のコンサート、来てくれてありがとう。
因みにあのアンコールの時も、お前の事だけを考えて弾いていた。他の客には悪かったがな。」
「嘘でしょ…。」
「まだ信じないのなら、もう一度弾くからしっかり聴けよ。華波の頭の中に一生流れるように弾いてやる。」
そう言っていきなり弾きだした彼。
まだ全然頭の中が整理されていないけれど、マイナスの感情からは解き放たれた今、改めて聴くと、その曲は、セレナーデという曲想に相応しいくらいに、愛が溢れていた。
ー『セレナーデ』
ーー『愛の歌』
日本語ではそう訳される。
恋の詩を旋律に乗せて歌う曲。
切ない恋、
幸せな恋。
西欧のロマン時代から、歴代の作曲家達によって、その種類こそ違うけれど、恋を歌った曲が作られた。
今、目の前で春妃が奏でている、春妃が作曲したセレナーデ。
時には切なく、時には幸せそうに唄われている。
私が彼を思って切なさや悲しみ、寂しさ、喜びや楽しみ、幸せを感じていたように、きっと彼も同じ事を同じように感じていたんだ。
そう思うと、涙が溢れてくる。
よかった。
忘れられてなんかなかった。
私が悩んだり、励まされていたりしていたのと同じように、彼も感じていた。
それだけで、今までの長かった10年間が宝物の様に感じる。
止まらなくなった涙が頬を伝って落ちていく。
暖かい余韻を聴きながら、ボロボロと流れていく私の涙を、弾き終えた彼が優しく撫でる様に拭ってくれる。
「図々しいかも知れないが、もう一度だけチャンスをくれないか?」
「え?」
「仕事中で申し訳ないが、言わせてくれ。」