何よりも大切なモノ
決して大きな声ではなかったが、その一言に教室中の人間が反応した。

「まじ?」

「誰? このクラスの奴か?」

自分達を取り囲むように大勢の生徒が詰め掛け、口々に叫んでいる。

亜美はまさかと思いつつ、弥生の顔を見つめ、それから二人の方へ視線を向けた。

喋っているのはどうやら桜の方で、大きな話題を提供していることが嬉しいのか、ニヤニヤと笑い、さらに勿体ぶった調子で――

「言っちゃうよ? あのさ……亜美の……」

と続けた。

亜美は、弥生が付き合っているとされる人物の話しで、自分の名が出てきたことに更に驚いた。

自分とどういう関係があるのか、まったく身に覚えがない。

「亜美のなんだよ。早く言えって」

あまりの勿体ぶりように、痺れを切らした周りから野次が飛ぶ。

桜はそんな野次さえも心地よい響きであるかのように、満足そうに笑い

「亜美のお兄さん。大学生で、けっこうイケメンなんだよね」

と、ついに明かした。

「まじかよ」

「おい熊田、ナイトのお前の兄貴ってなんだよ。身内贔屓きか?」

桜の望み通り、何も知らない人間にとっては衝撃の内容だったようだ。

驚いた顔で喚き散らしている。

自分にも向けられているそんな叫び声を聞きながら、亜美は心の底からガックリと項垂れていた。

桜の話を少しでも信じそうになった自分をバカだと思った。

「あのね、桜……あんたそれ、何を根拠に言ってんの?」

「え? 何って言われても……」

早くも桜はトーンダウンしていた。

「だって弥生、よく亜美の家に行ってるみたいだし……そこには年上でイケメンのお兄さんがいるわけでしょ? きっと仲良くなってるんだろうなって思うじゃん」

「イケメンってねぇ、あんたあいつの顔見たことあんの? 何もイケてなんかないし」

それだけ言うと、桜は照れたような表情で押し黙ってしまった。

恐らく、どこかで自分の兄の存在を嗅ぎ付けたのだろう。

しかし正確な情報はそれだけだ。

あとはドラマなんかでありそうな展開を勝手に脚色し、それが真実だと思い込んでしまったのだ。

まったく、たくまし過ぎる想像力だ――

一気に力の抜けた亜美だったが、一応念を押しておこうと続けた。

「あのね、ウチの兄貴には同い年の彼女がいて、お互いの両親にまで紹介しあってる仲なの。仮に弥生がその気になったって、もう二人の間には割り込めないわよ」

「綺麗な人だよね、お兄さんの彼女」

ちょうどよいタイミングで、弥生の方からも助け船が出た。

助け船も何も、弥生の疑惑を晴らすための話だったのだが。

「ほんと、あのバカ兄貴には勿体なさすぎる人だよ。弥生はその彼女とも知り合いで、けっこう仲良くしてんだから、桜が言ったような関係には絶対にならないわけ。わかった?」

これで終わりだと言うように亜美が言うと、集まっていたクラスメイトも、自分の席へぞろぞろと帰って行く。

途中、桜と相方に向けて恨みがましい視線を送りながら。

桜達は小さくなっていた。

「あ、ねぇねぇ亜美。そう言えばさ、いつか聞こうと思いながら忘れてたことがあるんだけど……亜美のお兄さんの名前、なんて言うの?」

不意に弥生が言った。

「はぁ!? あんた、知らなかったの?」

「だって『お兄さん』としか呼ばないしさ、今さら聞けないって感じになってたし」

教室中が笑いの渦に包まれる。

「あんたねぇ、いくら天然だからってそれはちょっと酷いわよ」

亜美が言うと、弥生は小さくなって頭を掻いた。

「だから、こっそり教えてよ。ね?」

「まったく、しょうがないわね」

ゲラゲラと皆が笑っている。

些細なことなど忘れたかのように。

「なに騒いでんのー? ほら、授業始めるわよ。用意して」

いつの間にか午後の授業の開始時刻を過ぎていた。

化学担当の、なかなかに厳しい女性教師が、眼鏡の奥の瞳を光らせていた。
< 6 / 14 >

この作品をシェア

pagetop