何よりも大切なモノ
ボクシングを始めたのはプロボクサーを目指している彼の影響で、同じジムに通うようになり、そして今年の夏の終わり、恋人になった。

ボクシングをやっている人間にしては珍しく、穏やかな性格で、大きな体に大きな心を持ち、自分のことを大切にしてくれている。

「ねぇ弥生……あんた、本当に好きな人とかいないの?」

彼のような人が弥生にもいれば……などと安直に思い、つい言ってしまっていた。

「どうしたの急に?」

「いや、ごめん。忘れて」

彼のような人間がそうそういるはずがなく、そして自分は、いずれ彼のようになるかも知れない人間をも、弥生から遠ざけてきたかも知れないのだった。

弥生の恋路を邪魔しようなどとは、露ほども思っていなかった。

当然だ。

弥生の幸せは、誰よりも願っている。

ただ、だからこそ弥生に近づく男が、弥生に相応しい男かどうか自分がしっかり見極めなければと思っていた。

それはエゴだと、自分でも分かっている。

それも傲慢なエゴだ。

人の全てを見極める目が、自分に備わっているわけではない。

それどころか自分の見極め方が、大きく間違っている可能性だってある。

分かってはいるが、どうしても抑えがきかなかった。

そんな自分が、今さら何かを言う資格など、ありはしないと思った。

第一、やはり弥生のことはすべて分かっている。

好きな人がいたなら、自分はそれにとっくに気づいていただろう。

話が途切れたところで、ふと窓の外を見ると、もう真っ暗だった。

「ごめん弥生、もう真っ暗だ。早く帰ろ」

冬は日が暮れるのが早い。

真っ暗と言ってもまだ6時前だが、それでも亜美にとっては不安に繋がるのだった。

自分も弥生も電車通学だが、途中で別れなければならない。

自分が先に降り、電車の中に弥生を残して行く。

必ず女性専用車両に乗るからそこでの心配はないが、駅についてからが問題だった。

駅から弥生の自宅まで、歩いて10分ほどだ。

周りには民家が立ち並んでいるので危険な場所ではないが、それでも暗い道を一人で歩いている弥生を想像するのは怖かった。

まさか自分から弥生の両親に、「帰りは迎えに行ってあげてください」などとお願いするわけにもいかず、せめてもと、弥生には防犯ブザーと催涙スプレーを持たせていた。

自分が言わないと、弥生はそういう物の必要性を認識しない。

そういうところは、やはり天然だった。

「ほら弥生、行くよ」

亜美は立ち上がり、バッグを掴むとそう促す。

しかし弥生はピクリとも反応しなかった。

「どうしたの弥生、早くしないと」

焦れた亜美は、弥生のバッグを掴むと無理やり手に握らせ、そしてその手を引こうとする。

すると弥生は、思いがけないことに、反発するように手を引っ込めた。

「弥生?」

これまでに見たことのない弥生の態度に、亜美は言い知れぬ不安を感じた。

「どうしたの弥生。ごめん、私なにか余計なこと言った?」

バクバクと高鳴る自らの胸の鼓動を感じながら、亜美は弥生を見つめた。

顔を伏せているので、表情は見えない。

いつの間にか掴んでいた腕はほどかれ、逆に弥生が亜美の腕を掴んでいた。

その手に、ぎゅっと力が入る。

弥生が、伏せていた顔をあげた。

「あのね、亜美。私、いるよ」

何を言われているのか、亜美にはさっぱり分からなかった。

「いるって、何が?」

「だから……好きな人。私、いるよ」

その瞬間、突風が吹き、教室の窓がガタガタと揺れた。
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