幸福に触れたがる手(短編集)
浅く速い呼吸をしながらベッドに倒れ込んだ。
歩いてすぐの所にあった自宅マンションにお兄さんを連れ込んで数時間。ろくな会話も、むしろ自己紹介すらしないまま、寒さを紛らすようにひたすら熱を求めた。
数ヶ月前に買って以来、ほとんど使うことがないまま置きっぱなしになっていたコンドームを全て使い切ると、もうシャワーを浴びる体力も残らなかった。
それでも元気なお兄さんは「もう一回する?」とわたしの肩を撫でたけれど、それは勘弁してほしい。
「体力の限界です、引退します……」
言うとお兄さんは楽しげにふはっと笑って「力士かよ」と返してくれた。
「体力ねえなあ。もっと鍛えろよ」
「オフィスワークで社内しか歩かないんです」
むしろお兄さんが元気過ぎる。頬骨が浮き出るくらい痩せているけれど、相当鍛えているのだろう。服を脱いだら腹筋が六つに割れていたし、腕も足も結構な筋肉が付いていた。
「ちょっとくらい運動して体力付けとかないと健康に悪いぞー」
「分かってはいるんですけど、なかなか……。お兄さんは凄い筋肉付いてますね。身体動かす系の仕事なんですか?」
「……まあ、そんなとこ」
「……へえ」
ようやく始まった会話はスムーズに流れ、お互い間髪入れずに答えていたのに、仕事の話になった途端、一瞬の間ができた。
もしかしたら、仕事の話はしたくないのだろうか。だとしたら悪いことをしてしまった。
体力はあるし、人見知りもしないようだから、営業とか接客とかそんな感じなのかもしれないけれど、今後仕事の話は避けた方がいい。
それを気にして口を閉じたけれど、お兄さんは特に気にする様子もなく「そういやあんた、名前は?」と切り出す。
「ああ、そうでした。一宮知明といいます。お兄さんは?」
「篠田亮太」
「篠田さんですね。多分憶えました」
「多分かよ」
「酔っ払いですし、寝て起きたら忘れているかもしれないので」
「嘘つけ。途中から酔い醒めてただろ」
「篠田さんもね」
言うとお兄さん、改め篠田さんはくつくつ笑って、足元でぐしゃぐしゃになっていた毛布を引っ張り上げる。そして汗で額に張り付いたわたしの髪を優しく梳いてくれた。
かと思えば満面の笑みで「名前忘れてたら罰ゲーム」なんて言い出す。行動と言葉が一致していない。