幸福に触れたがる手(短編集)
一仕事終えたあと、初めて篠田さんの部屋に招待された。
落ち着いた色合いの家具が並ぶ大人っぽい部屋だったけれど、ソファーの上に洗濯物がたたまないまま置いてあって、生活感がある。
かと思いきや、テーブルの上には台本らしき冊子があった。
凝視していたら「今月から始まるドラマの台本」と説明される。……本当に役者なんだ。
そりゃあイケメン、ていうか美人だし、スタイルも良いし、役者と言われれば納得できるけれど。
途中まで危ない仕事をしているんだと勘違いして、刑務所に入ったとしてもとか何とか言っていたわたしが恥ずかしいじゃないか。
「元々は舞台に立ってたんだけど、最近ドラマや映画やバラエティーにも出してもらえるようになって。自惚れかもしれないけど、正直あの日おまえが駆け寄って来たとき、俺が役者だって知ってて声かけたんだと思ったよ。吐きそうになってる知らない男の背中擦りに来るなんて、普通しないだろ」
「……」
「でもそれならそれでいいやってくらい抱きたくなって。そのあと話してるうちに、テレビも映画も舞台も、雑誌すらろくに見ないやつだって知って。部屋ん中見回したらそれが本当だって分かったら、嬉しくてさ」
「……どうしてですか?」
「役者篠田亮太じゃなく、ただひとりの男として見てくれたからな。最近は役者が大前提で見られていたから、新鮮でいいなって思った」
華やかな印象がある役者さんの世界でも、色々な苦労があるみたいだ。それもそうか。露出が増えると、自分を知っているひとも増える。どこへ行っても、役者篠田亮太として見られているのだ。
まあ、わたしが役者さんに詳しかったとしても、街灯の灯りと背中だけで誰だか判断するのは難しいと思うけれど。
「俺がどんな仕事してても支えてくれるんだろ?」
「さ、支えたい、ですけど……」
「けど?」
「いいんですか? わたしで。わたし一般人ですよ? 役者さんの世界のことなんて、本当に何も知りませんよ?」
言うと篠田さんはむっとして、わたしの頬を……。
「痛い! さっきと同じとこはやめてください! いたたたた!」
「おまえは役者の俺に惚れたのか? ただの俺に惚れたんだろ?」
「……はい」
「ならつべこべ言わずに惚れてろ」
「自信家ですねえ」
「自信なんてねえよ。いつおまえが、さっきの話はなかったことにー、とか言い出さないか不安になってる」
「言いませんよ、そんなこと」
「なら良かった」
「篠田さん」
「ああ」
「キスをします」
頬にあった手を掴んで背伸びをしたら、篠田さんはふにゃっと笑って腰を折った。
おまえといてもつまらない、張り合いがない、可愛げのないおまえとこの先ずっと一緒にいるメリットがない、と恋人に振られて一ヶ月。
もう仕事を恋人にするしかない。しばらくはひとりでのんびりしよう、と思って半月。
メリット云々じゃなく、心の底から支えたい、一緒にいたいと思えるひとに出会って、数日。
元恋人に言われたこと全てを、すぐに直せるほどできた人間ではないけれど、このひとにはできるだけたくさんの感情を伝えたいなって。思うんだ。
そうしてわたしの、人生で一番幸せなお正月休みが終わったのだった。
(了)