幸福に触れたがる手(短編集)





 次の日、休憩中に携帯を開いて目を疑った。新着メールが三十六件。

 迷惑メールだと思って慌てて確認すると、どうやら違うみたいだ。いや、送信者は同じだったから、これもある意味迷惑メールなんだろうけど……。
 その送信者というのは、圭吾くん。

 三時間くらい前から、数分おきにメールが届いていて、その内容は「今から稽古」「道を歩いている」「今日は電車移動」「電車降りた」「稽古場まで徒歩十分」「歩いている」「稽古場ついた」「今から着替える」「今日の稽古着」「稽古着柳瀬と被った」……。そんな一言メールばかり。ご丁寧に、全て写真付き。稽古着が被ったという柳瀬さんの嫌そうな顔といったら……。

「……」

 ていうかこれをつぶやけよ! いや、月に一度くらいしかつぶやかない圭吾くんが、突然こんなリアルタイムでつぶやいたら、数千人いるフォロワーさんたちがびっくりしちゃうだろうけど!

 三十六件順番に開いていく最中、また圭吾くんから新着メール。
 今度は「香世ご所望の稽古場の便所」と。誰も所望してませんけど! トイレにこだわったのは圭吾くんでしょうが。

 休憩中なのにどっと疲れが出て、着信履歴から圭吾くんに発信する。
 メールが届いたばかりだから、きっと携帯の近くにいるはずだ。


 少しの間のあと「なんだよ」といつもの声。

「こっちの台詞なんですけど。なんなの、このメール」

「ああ? つぶやいてほしいって言ったの香世だろうが」

「メールでやれとは言ってない」

 圭吾くんとわたしの間に解釈の相違があったことは否めないが、あの圭吾くんが……ブログもツイッターも音沙汰なしの圭吾くんが、数時間で三十七回も今の状況を報告したのは、歴史的な大事件かもしれない。


「でもまあ、圭吾くんの私生活がちょっと知れて、嬉しかった、かも」

「かもじゃねぇだろ」

「かもだよ」

「素直じゃねぇかも」

 くっくっと笑う圭吾くんの声が耳に響いてくすぐったい。

 三十歳になっても相変わらず適当で自由な圭吾くんも、年相応に空気もひとの心も読めるから、実はわたしが寂しかったということに気付いているのかもしれない。

 本当はすごく会いたかったし、声も聞きたかったし、寂しかった。でも忙しいだろうなって、疲れているだろうなって、ひたすら空気を読むことに徹した。
 だからつぶやいてほしかった。

 結果的に、三十七件のメールと、電話もできたし。ちょっとじゃなくてすごく、すごーく嬉しかった。


「ああ、そうだ、香世。明日休みって言ってたよな」

「うん?」

「なら今晩うち来いよ」

「え、でも圭吾くん明日も稽古でしょ?」

「だからうち来いって」

「ん、うん?」

「十時過ぎくらいには帰る。呼ばれたから切るぞ」

「え、あ、はい」


 圭吾くんを呼ぶ柳瀬さんの声がした後、すぐに電話が切れて、ため息。いつも勝手なんだから。この前も「おまえ今日暇だよな。飯食い行こう、俺の実家に」って突然実家に連れて行かれたし。

 ため息をついたけれど、ふと気付けば頬が緩んでいて。

 そうなのだ、すごくすごーく楽しみなのだ。楽しみかも、じゃなくて、楽しみなのだ。
 今この瞬間も、一秒ごとに彼を好きになっているのだ。
 一秒ごとに、彼に奪われているのだ。









(了)
< 32 / 49 >

この作品をシェア

pagetop