幸福に触れたがる手(短編集)
「恋人が来たなら帰る」というふたりに、せっかく作った餃子を持たせた。茉莉ちゃんと「こんなにいらないよ、柳瀬さんと食べな!」「啓二くん餃子好きなんだからいっぱい食べさせてよ!」という押し問答をしている間、柳瀬さんと啓二くんはリビングで談笑していた。
さっきまで胸倉を掴み掴まれていたふたりとは思えないような、和やかな雰囲気だった。
玄関でふたりを見送りドアが閉まると、部屋の中は途端に静かになった。
平静を取り戻していた気分が、ふたりきりになったことで高揚し始めた。のは、やはりこのひとの恰好のせいだろう。
見慣れないスーツ姿に、オールバックの髪。
こんなのずるい。ネクタイは……スーツは反則だと思う。
柳瀬さんが出ている舞台は何度も観に行った。その度色々な衣装を見た。制服だったりユニフォームだったり和装だったり甲冑だったり……色々な姿を見たけれど、スーツは初めて見る。
額も然り。普段は前髪を下ろしているから、彼の額は滅多に見られない。
スーツもオールバックも、職場に行けばいつでも見られるけれど、好きな相手のそんな姿は別物。
いつもの何十倍も格好良く見えて、胸が張り裂けそうだ。
隣に立つ柳瀬さんをちらと盗み見ながら「どうしたんですかその恰好」と聞くと、彼はネクタイを緩めながら「友だちの結婚式行って来た」と答える。
なるほど。言われてみれば。ネクタイの色も明るいし、主役のふたりよりも目立たないすっきりしたオールバックは、結婚式と言われれば納得できる。
見るとすぐ足下には引き出物が入っていると思われる大きな紙袋も置いてあるし。披露宴会場から真っ直ぐここに来たらしい。
そうだったんですねえ、と返事をしながら、もう一度柳瀬さんを盗み見る。と、彼もわたしを見下ろしていて、ばっちり目が合ってしまった。
いつもは前髪で隠れがちな目力の強い切れ長の目がしっかり見えて、胸が高鳴る。
知り合って数年。付き合い始めて数ヶ月。会えない日の方が多いけれど、日ごとこの人を好きになる。
クリスマスなどのイベントで会えないのはやっぱり少し寂しいけれど、浮気なんて考えられないくらい、この人が好きだ。
「しませんからね、浮気」
言うと柳瀬さんは「分かってる」と言ってふっと笑った。
「でも啓二くんを見てちょっと疑ってましたよね」
「そりゃあ……急に知らねえ男が出て来て千穂を嫁だなんて言ったらな」
「確かにそうですけど。あ……でもすみません。わたしもちょっと、浮気されてるんじゃないかって思ったりしてました……」
「ひでぇ」
「二ヶ月会えなかったので」
「まあ、確かに」
顔を見合わせて笑い、そしてどちらからともなく手を繋いで、リビングに戻った。