幸福に触れたがる手(短編集)
「いや、だから。これからもなかなか会えない生活が続くんなら、一緒に暮らすか、同じマンションに引っ越すか。俺は別に住むとこなんてどこでも良いし、引っ越しも面倒じゃないから、越して来てもいいんだけど。どう思う?」
「どう思うって……それって……」
その言葉の意味を理解した瞬間、さっきから高鳴っていた鼓動が、より一層強く。ばくん、と激しく鳴った。身体の芯が、焦げてしまいそうなほど熱くなっていく。脈拍がとても不規則で、息が苦しい。
柳瀬さんはわたしともっと一緒にいたいと思ってくれている……のは前にも聞いた。でもまさか一緒に暮らすだとか同じマンションに引っ越すだとか、そういう風に思ってくれていたなんて。
ここでわたしが頷けば、この人との時間が増えるのだ。
例えば一緒にごはんを食べたり、何でもない雑談をしたり……。普段の柳瀬さんは勿論、レアな姿をいつでも見ることができる。あまり見ることができない額も、しょっちゅう見ることができるだろう。
レアな姿――そう、髪を乾かしたり歯を磨いたり爪を切ったり。洗濯物を干す姿やお風呂を掃除している姿だって。あ! ひげ! ひげ剃っているところは見てみたい! お父さんも春くんもひげが薄いから、いつかじっくり見てみたかったんだ!
「千穂、聞いてる?」
「え? あ、はい」
「今意識飛んでなかったか? そんな悩むことか?」
「すみません、色々考えてて……」
柳瀬さんが掃除をしたりひげを剃ったりする姿を想像していたなんて間違っても言えず、苦笑して姿勢を正した。
さっきまであれだけ不規則だった鼓動が、落ち着いていく。
焦げてしまいそうなくらい熱かった身体の芯が、急激に冷えていく。
そしてわたしはごく冷静に「よろしくお願いします」と答えたのだった。
「答えは聞かなくても何となく分かったよ。意識飛ばしながらもにやにやしてたし」
「……してません」
「いや、してたよ。なに想像してたの、千穂ちゃん。やらしー」
そう言って柳瀬さんは意地悪な笑みを浮かべる。
わたしの気持ちを見透かしたように意地悪な顔をしても、心のどこかでは「断られるかも」と思っていたのか、彼は安心したようにふうっと息を吐く。
それに気付いてしまったらまた鼓動が高鳴って、わたしはそれを隠すように彼の大きな手を握った。
今日は鼓動が忙しい。
こんなに強弱がついて、起伏の激しい無差別な気持ちに名前を付けるのだとしたら、きっとそれは「恋」以外にはないと思った。
この人と一緒にいる限り、わたしの鼓動は忙しいままだろう。それでもいい。この強弱に合わせて、きっと明日からも日ごと、この人を好きになっていく。
このリズムこそが、この人との恋なのだ。
(了)