幸福に触れたがる手(短編集)






 でもここに男が出入りしている形跡はゼロ。男物も服も歯ブラシもシェーバーも、写真もプレゼントされたと思われる物も何にもない。

 そればかりか、オーディオも雑誌も新聞もなかった。テレビもDVDプレーヤーもコンセントが抜かれている。あるのは最低限の生活必需品と、小説くらいだ。

 俺のことを知っていても良いと思ったが、これじゃあ高い確率で知らないだろう。
 そこからはすっかりリラックスして、いつも通りの寝方で朝までぐっすり眠った。

 女は朝になってもちゃんと俺のことを憶えていたから、関係を一から始めずに済んで、世事については案の定。テレビも映画も雑誌も見ないような生活をしていることが分かった。本当に俺が何者か知らずに近付いて来た、ただのお人好しだったらしい。


 それから女は最近、三年付き合った恋人に振られたらしい。
 理由は女の物分かりの良さ。張り合いのなさ。可愛げのなさ。恋人が浮気してもドタキャンしてもイベントを無視しても全て許して肯定してきたことが、男にとっては張り合いがなく可愛げなく思えたそうだ。

 ただ一緒に過ごすうちに、それはちょっと違うんじゃないかなと思った。

 物分かりが良いというか、きっと勘が良いのだ。理解や吸収が早いのだ。
 相手のために自分がどう動けばいいのかが分かってしまうから、我が儘の類のことを言わないし、しないのだ。
 夜道で蹲っていた俺の背中を擦りに来るくらい、心根が優しいのだ。自分のことより相手のことを優先させてしまうのだ。


 それに気付いたら、可愛がってやりたくなった。この不器用な女を甘やかして、楽しませて、癒してやりたいと思った。異性に対してこんな気持ちを持つのは初めてだ。

 そしてふたりでたくさん話して、たくさん食って、たくさん笑って。そんな四日間を過ごしたあと、女と付き合うことになった。

 今まで付き合ったどの子とも長続きはしなかったけれど、彼女となら自然体のまま、ずっと一緒に居られると思った。





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