幸福に触れたがる手(短編集)
シャワーを浴びて寝室に戻ると、篠田さんはもういなかった。
ベッドを確認すると、もう彼の熱は消えようとしていた。ということは、わたしがシャワーを浴びに行ってすぐ、この部屋を出て行ったということになる。
朝食を所望したくせに、異様な寝方に慣れろと言ったくせに、あんなに優しい笑顔を見せたくせに。挨拶もしないで、連絡先も教えずに行ってしまうなんて。
濡れた髪をタオルで拭きながら、ソファーに沈む。
まあ、分かり切ったことだった。
あんな出会い方をしたのだから、一夜限りで終わり。次なんてない。
どんなに幸福な一夜を過ごしても、所詮は名前しか知らない男と女。
しばらく一人でのんびりするって、仕事を恋人にするって決めたじゃないか。だから幸福な一夜を過ごせただけでも良しとしよう。
こうなれば、お互いの情報がゼロに等しいことを有難く思う。
篠田さんはわたしの自宅マンションを知っているけれど、わたしは知らない。仕事も連絡先も知らない。道端で会ったのだって昨日が初めてだった。最寄り駅が一緒だとしても、そこらで偶然ばったり会うなんてことはまずないだろう。
今回のことを戒めとして、心を入れ替えなければ。
知らない男を部屋に上げない。一夜限りの関係を持たない。お酒はほどほどにする。
そんな風に自分に言い聞かせないと、惨めになる。
あの優しさに、笑顔に、声に、仕草に、香りに、彼の全てに惹かれ始めていた自分が、とんでもなく間抜けに見えて……。
馬鹿だ。失恋直後だからと言って、アラサーだからと言って、人肌恋しい季節だからと言って、道端で知り合ってたった一夜を共にしただけの男性に惹かれるなんて。
これがもし身体目的の危ない人だったらどうする。事件に巻き込まれてしまったらどうする。妊娠でもしてしまったらどうする。
こんな危ない橋は、渡るべきではない。もういい年なんだから、この先それくらいの判断はできるはずだ。
二度と会えなくたって、寂しくはない。年の瀬にやらかした、今年最後の過ちだと諦めよう。
年が明けたらちゃんと心を入れ替えて、新しい気分で真面目に過ごして行こう。
よし、と息を吐いて立ち上がる、と……。