笑顔と猫とどんぶらこ~フーテンさきの歌紀行~
「素敵なラブソングですね。はい、一万円」
 ぱっと見た感じ、二十歳くらいだろうか。紺色のチロリアンハットを目深に被り、茶色のメガネを掛けた女性が、ココアの缶に一万円札を入れてくれた。

「い、一万円も……」
 あたしは思わず自分の目を疑った。
 一万札を入れてくれた人は初めてだからだ。

 おもちゃの紙幣には見えない。
 偽札にも見えない。
 どうやら本物の一万円札のようだ。

 惜しげもなく、ココアの缶に一万円札を入れてくれた女性はいったい何者なのか。
 ベンチャー企業の若手実業家なのか。
 社長令嬢のお嬢様なのか。
 宝クジでも当たったのか。
 麻薬の密売人なのか。
 新手の詐欺集団の一味なのか。
 服装が地味だから、高級クラブのキャバ嬢にも銀座のホステスにも見えない。

「あなたは、どうして一万円も入れてくれたの?」
 不思議に思ったあたしは、愛らしい笑顔で微笑んでいるチロリアンハットの女性に聞いてみた。

「あなたのラブソングに感動したからです」
 チロリアンハットの女性は、愛らしい笑顔のまま、あたしの質問に答えてくれた。

「そう言ってもらえると、すごく嬉しいんだけど、いくらなんでも一万円は多すぎるよ」
 あたしはココアの缶から一万円札を取り出して、愛らしい笑顔であたしを見つめているチロリアンハットの女性に差し出した。

「一度入れたものは受け取れません。どうかもらってください」
「本当にいいの? 一万円も大丈夫?」
「私はお金持ちなので、ぜんぜん大丈夫です。さっきのラブソングを、もう一度、聴かせてもらえませんか?」
「う、うん。いいよ」
 一万円もくれたチロリアンハットの女性のリクエストに応えるため、さっきより声を張り上げて歌った。
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