ビルに願いを。
その時足音が近づいてきた。「ジョー?」と少し離れて呼びかける社長の声で急に心が現実に戻ってくる。

丈が「来るなよ」と嫌そうにつぶやいて立ち上がり、ステップを登って社長の方へ行く。

「杏ちゃんも一緒か? 何かあったみたいだけと、まだ何人か挨拶する相手がいる。一時帰国したいんだったよな?」

「わかってるよ。ちょっと待って」

丈は戻ってくると「部屋で待ってる?」と聞いてくれた。

でも私が首を振って「帰りたい」と言うと、「じゃあ下まで送る」と言って手を取り立ち上がらせてくれる。

「タクシーに乗せたら戻ってくる。変な男がいるから」

社長の後ろに控えた麻里子さんが、心配そうに眉をひそめるのが見えた。



ラウンジにもエレベーターホールにも、松井くんはいなかった。叱られて帰されたのかもしれない。会社での立場が悪くならないといいけど。

エレベーターに乗り込むと、丈がいつも通りの口調でさらっと「法律事務所のインターンとか言ってたな。辞めさせとこうか?」と聞いてくる。

「やめて。私のせいでこれ以上迷惑かけたくない」

「バカだな。まあ、何にもしてこないように見張らせとくか」

そういうこともできるんだ。このビル内での丈の立場を思い知る。アッパーフロアの弁護士さんが深々とお辞儀をしていたよね。




1階を過ぎて地下の駐車場に降りる。先に届けられていたジャケットを青いドレスの上に羽織って、呼ばれた黒いタクシーに乗せられる。

それほど派手な格好じゃないから、家の前で降りればこのままでも目立たないだろう。

タクシーの後部座席から振り返って後ろを見ると、丈が小さく手を上げてくれた。

地上に出てもしばらく後ろを向いていたけれど、タクシーはすぐに複雑に曲がり始め、いつもみたいにビルを見上げることはできなかった。



でも大丈夫。叶えたい願いはこれ以上もう思いつかない。


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