勿忘草~僕は君を忘れてしまった。それでも君は僕を愛してくれた~。

その日の夕焼けはとても綺麗だった。
僕と彩さんは特に何を語り合うこともなく家路に着こうとしていた。
「冷えますね」
ポツリと彩さんが呟いた。だから僕は・・・。
「そうだね」
と返して淡く微笑んだ。
そう言えば彩さんは手袋をしていなかったな。そんなことをふと、僕は思い出した。そんな僕もコートのポケットの中に手袋を突っ込んだままなのだけれど。
僕は車椅子を押してくれている彩さんをチラリと振り返り、その手もとをそれとなく確認した。やはり彩さんは手袋をしていなかった。そして、彩さんの手は寒そうに僅かに赤くなっていた。
僕はいそいそとコートのポケットの中を探り、男物の手袋を取り出した。
「彩さん。よかったらこれ使って?」
僕は振り返り笑んでその男物の手袋を彩さんにそっと差し出した。その差し出しと同時に彩さんの歩みが止まり、僕の足でもある車椅子の歩みも共に止まった。
「要さんは手袋・・・使われないんですか?」
遠慮がちに訊ねてきた彩さんに僕は『うん』と頷いて再び笑んでいた。
僕はそこまで寒さを感じていなかったし、何よりも彩さんに僕の手袋を使って欲しいと思った。
僕のはっきりとした頷きと笑みに彩さんはニコリと笑うといつもの溌剌とした声で『お借りします』と言って僕の手からその男物の手袋を受け取り、その小さな可愛らしい手にはめてくれた。
「・・・暖か~い」
そう言って微笑む彩さんが愛しい・・・。
嗚呼・・・僕は彩さんのことが好きなんだ。
けれど、僕には左足がない。
そして、僕には記憶もない・・・。
そんな僕が健常者である彩さんに想いを寄せ、恋をすることは許されるのだろうか?
想いを寄せ、恋をすることは許されてもその想いを言葉にして伝えることは許されるのだろうか?
言葉は魔法で呪いだ・・・。
物書きである僕はそのことをよく知っている。
だからどうかもう少しだけ・・・もう少しだけ僕のこの淡く甘酸っぱい気持ちは僕の胸の内だけに留めておこう・・・。
僕たち二人の関係を壊さないために・・・。
いや・・・僕が傷付かないために・・・。
僕は本当に臆病で弱虫で狡猾な人間だ・・・。
そんな汚い僕を彩さんが好きになってくれるわけがない。
そして、そんな僕が彩さんを幸せにできるわけがない。
それでも僕は彩さんのことを愛しいと想う・・・。
人間の気持ちは複雑で難解だ。そして、それ故に美しく醜い・・・。
だからこそ人間は・・・面白い。
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