勿忘草~僕は君を忘れてしまった。それでも君は僕を愛してくれた~。

四月に入りウグイスの恋歌と共に庭に植えられている桜の木(ソメイヨシノと言う品種だったはず)の花も綻びはじめ、ちらほらと咲きはじめていた。
ただ、咲きはじめたと言っても本当に僅かな花しか今は綻んでいない。
薄紅色の小さな花がその大木の枝に一つ、二つ、三つ・・・全部で十ばかりと今は本当に寂しい状態だ。
それでも僕は嗚呼、いいな・・・。と、しみじみ感じていた。
ウグイスが恋歌を歌えば春は間近だと感じるし、桜が綻び咲けば春が来たと僕は思う。
季節はいつの間にか移ろい、その艶やかな色を混沌と変えていく・・・。
そして、命あるものは年を取り、やがて朽ちて消えて逝く・・・。
春は出逢いと別れの季節と言うけれど、それは本当だと僕は心の内で思い、頷く。
出逢いがあり、別れがある。そして、また出逢いがある・・・。
縁とは本当に不思議なものだ。
たった一つの縁が人生を変えることもある。
それがいい縁か悪い縁かは自分次第になってしまうけれど・・・。
「今日は本当にいいお天気ですね。気持ちがいいです」
リビングの窓辺でまだ寂しい桜の木の花を観賞している僕の横に来て彩さんは明るくそう言った。
彩さんのその言葉に僕はコクリと頷いて桜の花と同じ色に染まっている彩さんの横顔をそっと盗み見た。
彩さんのその横顔に僕はドキリとさせられた。
春はどうしたって浮き足立つ・・・。
まあ記憶を失った僕にとっては記念すべき初めての春なのだけど・・・。
けれど、僕はその春と言う季節のことを忘れてはいなかった。
春は桜や他の花たちが競うように艶やかに咲き誇り、ウグイスが恋歌を愛らしく歌う。そして、降り注ぐ日差しは暖かで優しく、頬を撫でる風は爽やかな草の匂いか甘い花の匂いを纏い、吹き去る・・・。
僕はそんな記憶を失わずに持っていた。
なのにその季節に居たはずの人たちのことが思い出せれない・・・。
顔も名前も声も・・・。
かろうじて断片的に思い出せた人もいる。
けれど、その思い出せた人に顔はなく、その顔の部分は黒い影に覆われ、声は二重にも三重にも響き、その声が男性のものなのか女性のものなのかもわからず、何を言っているのかもわからない状態だ。
僕はその人の存在を忘れてしまった・・・。
いや、僕はその人の存在を殺してしまったんだ・・・。
僕は・・・罪深い罪人だ・・・。
そんな罪深い罪人が春の陽気に誘われて恋?
ふざけている。恋なんてしちゃ駄目だ・・・。
けれど・・・。
「桜が満開に咲いたら・・・」
彩さんの言葉が僕の思考を遮った。
僕はゆっくりと瞬きをして彩さんを見つめ見た。彩さんも僕を見つめてくれていた。僕と彩さんの視線が一点で複雑に絡み合う・・・。
嗚呼・・・時よ止まれ・・・。
僕は心の内で呟いた。けれど、時は止まってはくれなかった・・・。
「お花見・・・しましょうね」
ニコリと微笑み、そう言った彩さんのその言葉に僕は再びコクリと頷いていた。そして、それと同時に時が止まらなくてよかったとまた心の内で呟いていた・・・。
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