恋愛生活習慣病
act.20
出張。
パリ。
一週間。
クロエさんが思いっきり誘惑する。
ああ…………。
完敗。
勝てる気が全くしない。
あんな美人なナイスボディに全力で誘惑されたら、ひとたまりもないわ。陥落だろ絶対。
今日のクロエさんはピンクベージュの柔らかそうな生地のシャツに、黒のタイトスカートというシンプルな出で立ち。
しかし、ちらりと覗く豊かな胸の谷間といい、キュッと上がったヒップラインといい、絶秒な深さのスリットから覗く脚といい、女の私から見ても、ものすごく色っぽかった。
この間会った時も色っぽかったけど、ていうか毎日色っぽいんだろうけど!
あんなひとが。あんなひとが毎日、べったり、傍にいて、しかもパリ。ロマンティックか。
冬也さんとクロエさん……。
お似合いだよね。
二人とも背が高くて、スタイルが良くて、美形。同じ職場で同じ学校、共通の友人も多くて会話も合うだろうし、生活レベルも似た感じだから価値観も合いそう。
エッフェル塔をバックに、うふふ、あははと微笑む冬也さんとクロエさんが目に浮かぶ。
私は……仮の彼女だし。
しかも家事はやらない、性格は適当、大雑把で美人でもなく、ナイスバディでもなく若くもない。
さらに、先日は友人との食事中に挨拶もせず帰ったうえ、一方的に連絡を絶つような失礼女。
って思い返すと私、良い所がナッシング…………!
うん。
終わった。
私の恋は終わった。
早かった。瞬殺だった。
いやしかし、傷が浅く済んでよかったのかもしれない。
「李紅?」
やっぱり告白は早まらなくてよかった。うん。このまま連絡が途切れそうな予感するし。
「おい、李紅。おい!」
「え?」
いきなり誰かに肩を掴まれて、びっくりした。見れば、雅くんが目の前にいる。
「あー、なんだ雅くんか。びっくりした」
「なんだじゃないだろ。手振っても声かけても反応ないし。ぼーっとしてどうした」
「別に……ちょっと考え事してて。雅くんは?」
「ああ。俺が働いてる病院、すぐそこだから」
雅くんが口にした病院の名前は、ここからワンブロック先の総合病院だった。
前に、今は都内の病院に勤めてるって言ってたけど、あれ、近所だったのか。
「このビル、帰りにたまに寄るんだけど、会わないもんだな。李紅はここのクリニックで働いてるんだろ?」
「うん。今は同じ医療法人系列のフィットネスと兼務してる」
「フィットネスって。6階のフィットネスか?」
そうだと答えると、雅くんが面倒くさい事を言いだした。
「じゃあちょうどよかった。李紅、紹介してよ」
「は? 紹介?」
「うん。ちょうどジムに通いたいって思って探しててさ。今日も上のフィットネスを覗いてみようと思って寄ったんだ。なあ、そこ体験利用ってできる?」
うえー、まじか。
雅くんにはあんまり関わりたくないんだけど。面倒。
「お前、今、面倒くさいって思ってるだろ」
「いえ、別に」
「じゃあ連れてけ。システムとか話聞きたい」
「えー」
「ぶつぶつ言わないで先輩の言うことを聞け」
そして引きずられるようにフィットネスジムまで連れて行かれた。
雅くんは爽やかイケメンなので受付の女の子には喜ばれたけど、翌日には「李紅さんが氷室様からイケメンドクターに乗り換えた」って話になってて、誤解を解くのに要らぬ労力を費やした。
どっちとも付き合ってないのに、無駄に疲れる。
迷惑なことに雅くんは、翌日の夕方に体験利用してそのまま入会してしまった。
元カノのいる職場に通うとか、何とも思わないのか、この人。思ってないんだろうなあ。
私がいるヨガクラスとか普通に参加してるし。
しかも、いつもの遠慮ない態度で接してくるからジムの女の子たちにまた変な誤解されるし。
もちろん、冬也さん推しのスタッフ、モエちゃんや他のみんなには、ただの大学の先輩とはっきり伝えてあるけど。
あ、元カレということはもちろん言ってないです。
◆
雅くんが入会してニ週間。
そして、冬也さんがパリに出張に行くと言ってから二週間。
その間、冬也さんからはメールも電話も来なかった。
仕事がすごく忙しいのか、それともクロエさんと親密な関係になって忙しいのかは分からない。
私のテンションはダダ下がりになって、芽生えたばかりの恋心は枯れつつあった。
やっぱり私は、恋愛は向いてない。
遅番のフィットネス勤務の後、雅くんにビールを飲みたいから付き合えと強引に9階のお洒落な居酒屋に連れていかれた。
テーブル席は埋まっていたので、カウンターに横並びで座る。
雅くんがフィットネスジムに通うようになり、連日のように顔を合わせるうちに、意識することがバカバカしくなってきた。
今はただの知り合いなんだから、普通でいいんだよね。
「お疲れー」
ジョッキをかちんとぶつけて乾杯したあと、ぐびっと一口。
「ぷはー、運動とか仕事とかお風呂の後のビールってなんでこう美味しいんだろ」
「体には良くないけどな」
先に食べたり他の水分摂らなきゃって知識はあるけど「でも止められないよなあ。最初の一杯」と雅くんもビールを飲んでいる。
「チェイサーも飲めよ」
「はいはい」
雅くんから水の入ったコップと一緒にお通しのモズク酢やらキャベツのざく切りを「食べろ」と促され、もしゃもしゃ食べた。
そういやこの人、こういう所がマメなんだよなあ。料理も掃除もちゃんとするし。
「雅くん、今も自炊してるんですか?」
「まあな。一人暮らしだし。料理好きだし苦じゃないよ」
「へえ。仕事忙しいだろうに偉いね」
「偉いねってお前、その口ぶりだと自炊してないな」
その質問には「うん」ときっぱり返事。
「だから家事をしてくれるヒモを養おうと思って絶賛募集中」
そう言うと、雅くんは目を見開いて、次に眉間にしわを寄せた。
「ヒモって、まさかあれか?ダメな男の、あのヒモ」
「うん。でもダメ男じゃなくて、いいヒモね。世の中には良いヒモもいるんです」
「……お前、へんなホストとかに引っかかってないだろうな」
いつか職場の同僚エリちゃんに言われたのと同じことを言われた。
まあ、普通はそう思うか。
そこで、良いヒモ彼の事例を詳しく熱く語り、説明した。理解してもらおうとは思ってないけど。
余計な恋愛感情のない、ビジネスライクなヒモ彼。家事と癒し。
良いわー。憧れるわー。やっぱ私にはこれだわ。
「家事って……ひとり分の家事がそんなに負担か? 俺は結婚してた時も仕事しながらやってたぞ」
ほほう。それはすごい。
「じゃあ奥さんと家事分担制だったの?ご飯は雅くんで奥さんが掃除担当とか?」
言った後でしまったと思った。そういえば結婚の話は禁句だって誰かが言ってた……。
「元、奥さんな。彼女は家事が嫌いだったから俺がやってたよ。掃除は時々クリーニングサービス頼んでたけど」
雅くんは気にしてないみたいに普通に答えてくれたけど。
「ごめん、変な事聞いて」
「ん?ああ、気にすんな。周りは気遣ってくれるけど、俺はそれほど気にしてないんだ。今思うと、根本的に彼女とは合わなかったんだよな。結婚当初から噛み合ってなくて、喧嘩ばかりでさ。お互いに神経をすり減らして終わったから疲れたし、振り返りたくはないけど、だからって腫物触るみたいに扱われてもな。李紅みたいに普通にしてくれたほうがいいよ」
雅くんはそう言って苦笑いした。
そうか。そうだよね。
私も雅くんに振られた時に、こわごわ声かけられたり顔色伺われたりして、気遣いは伝わったけどちょっと鬱陶しかったもんな。
「分かった。もう気遣わない」
「いや、李紅は少しは気遣え。むしろ気遣ってくれ、全体的に。俺の扱いが昔に比べてすげー雑。前の可愛かった李紅、カムバック」
「いえ、あの頃の私はもう居ません。新生・李紅です」
「嫌だ。今の李紅は可愛くない」
「可愛かった李紅は滅びました。残念だったな。はっはっは」
なんて、ぽんぽん言い合っていると昔に戻ったみたいな気分。
いや、昔とは違うか。
あの頃は追いかけるのに必死で、好きになって欲しくて、自分に余裕がまるでなかった。
夢中になっていない分、今の方が全然ラクだな。
恋心が無いってだけで、すごく気が楽。
少しでもよく見せようと見栄を張ったり、笑顔作ったり、話題を考えたりしなくてもいいし。
雅くんとはこんな関係がいい。
冬也さんとも色恋なしに、たまーに食事するようなメシ友にまたなれたらなあ。
うん、素の自分バンザイ。
恋は女の子を可愛くするっていうけど、私には不要。楽が一番。
このまま独身でも、恋愛しなくてもいいや。
彩芽も紗理奈もいるし、雅くんたちともこうやって時々ワイワイやる仲間でいれば、老後も寂しくない。
いつか、酸いも甘いも嚙分けた渋いおばあちゃんになったら、その時は恋してもいいかな。
70歳を過ぎれば、私もさすがに余裕のある、大人の恋ができるんじゃないだろうか。
「李紅」
「んー?」
ビールから日本酒に替えて、ほろ酔い気分でコップを傾けていると、片肘付いて右手に頭を乗せた雅くんが私の顔をじっと見ていた。
「お前、綺麗になったな。ふんわりっていうか柔らかくなったっていうか」
「それ太ったって言いたいんですか。これでも痩せたんですよ。15キロ太って10キロ痩せたの」
ベーコンにトマトって合うなー。モゴモゴ食べながら体重激変の話をすると、雅くんはびっくりしていた。
そういや雅くんが知ってる頃の私って、けっこう痩せてたんだった。
海外医療支援を目指してたから体力作りのために、毎日ランニングや筋トレをしてたし、大学生の頃はサバイバルサークルの活動もあったから日焼けしてたしね。
今はあの頃よりポチャってるし(太っているのではない)日焼けしてないから肌も白い。
「今のほうがいいよ。可愛い」
「ふん、ついさっき可愛くないって言ったくせに」
「綺麗になったし、可愛くなった」
「急にどうした。あ、もしかして酔ってる?」
「酔ってない。至って正常」
とか言ってるけど、目がとろんとしてる。
こりゃ酔っぱらってるな。
飲んでるひとが、酔っぱらってないって言う時はたいてい酔っている。
さて。十分、食べ飲んだことだし。
今日は平日、明日も仕事。帰りましょうかね。
「そろそろ帰ろう。これ以上飲むと雅くん寝そう」
「じゃあ李紅の家に行こう」
「はいはい、今度ね」
酔っ払いは無視。
会計をしてもらおうとお店のお兄さんに声を掛けたら、私がお財布を出している間に、雅くんは酔っ払いのくせに俊敏な動きで万札を渡していた。
「半分出すよ」
「はいはい、今度な」
雅くんは私の口真似で聞き流して、差し出したお金を頑として受け取ろうとしない。
仕方がない。今日はこの酔っ払いを家に帰すことにして、お金は後日返そう。
エレベーターに乗せたら余計に酔いそうだなあ。
ひとまず水をもう一杯飲ませてから…と思ったら雅くんがフラフラとと店の外に出て行った。うおーい。
慌てて後を追うと、店の前でぼんやり立って待ってた。よかった。
「エレベーター、乗れそう?そこのベンチで少し休む?」
「李紅」
「ん?気分悪い?水もらってこようか?」
顔を覗き込むと、目が合った。
酔ってるみたいだけど、呼んで目が合うなら大丈夫かな。
「付き合って」
「今からは無理だよ。今日は帰ろう。帰って寝た方がいいよ」
「違う。二件目に行こうって言ったんじゃない」
「いいから。雅くん、あそこの椅子に座ろう」
「いいから。とにかく聞けって」
落ち着けと言わんばかりに腕を取られて引き寄せられた。
お店の前でそれなりに人通りもあるというのに、キスでもしそうな至近距離で私をじっと見つめている。
「李紅。俺たち、結婚を前提に付き合わないか?」
パリ。
一週間。
クロエさんが思いっきり誘惑する。
ああ…………。
完敗。
勝てる気が全くしない。
あんな美人なナイスボディに全力で誘惑されたら、ひとたまりもないわ。陥落だろ絶対。
今日のクロエさんはピンクベージュの柔らかそうな生地のシャツに、黒のタイトスカートというシンプルな出で立ち。
しかし、ちらりと覗く豊かな胸の谷間といい、キュッと上がったヒップラインといい、絶秒な深さのスリットから覗く脚といい、女の私から見ても、ものすごく色っぽかった。
この間会った時も色っぽかったけど、ていうか毎日色っぽいんだろうけど!
あんなひとが。あんなひとが毎日、べったり、傍にいて、しかもパリ。ロマンティックか。
冬也さんとクロエさん……。
お似合いだよね。
二人とも背が高くて、スタイルが良くて、美形。同じ職場で同じ学校、共通の友人も多くて会話も合うだろうし、生活レベルも似た感じだから価値観も合いそう。
エッフェル塔をバックに、うふふ、あははと微笑む冬也さんとクロエさんが目に浮かぶ。
私は……仮の彼女だし。
しかも家事はやらない、性格は適当、大雑把で美人でもなく、ナイスバディでもなく若くもない。
さらに、先日は友人との食事中に挨拶もせず帰ったうえ、一方的に連絡を絶つような失礼女。
って思い返すと私、良い所がナッシング…………!
うん。
終わった。
私の恋は終わった。
早かった。瞬殺だった。
いやしかし、傷が浅く済んでよかったのかもしれない。
「李紅?」
やっぱり告白は早まらなくてよかった。うん。このまま連絡が途切れそうな予感するし。
「おい、李紅。おい!」
「え?」
いきなり誰かに肩を掴まれて、びっくりした。見れば、雅くんが目の前にいる。
「あー、なんだ雅くんか。びっくりした」
「なんだじゃないだろ。手振っても声かけても反応ないし。ぼーっとしてどうした」
「別に……ちょっと考え事してて。雅くんは?」
「ああ。俺が働いてる病院、すぐそこだから」
雅くんが口にした病院の名前は、ここからワンブロック先の総合病院だった。
前に、今は都内の病院に勤めてるって言ってたけど、あれ、近所だったのか。
「このビル、帰りにたまに寄るんだけど、会わないもんだな。李紅はここのクリニックで働いてるんだろ?」
「うん。今は同じ医療法人系列のフィットネスと兼務してる」
「フィットネスって。6階のフィットネスか?」
そうだと答えると、雅くんが面倒くさい事を言いだした。
「じゃあちょうどよかった。李紅、紹介してよ」
「は? 紹介?」
「うん。ちょうどジムに通いたいって思って探しててさ。今日も上のフィットネスを覗いてみようと思って寄ったんだ。なあ、そこ体験利用ってできる?」
うえー、まじか。
雅くんにはあんまり関わりたくないんだけど。面倒。
「お前、今、面倒くさいって思ってるだろ」
「いえ、別に」
「じゃあ連れてけ。システムとか話聞きたい」
「えー」
「ぶつぶつ言わないで先輩の言うことを聞け」
そして引きずられるようにフィットネスジムまで連れて行かれた。
雅くんは爽やかイケメンなので受付の女の子には喜ばれたけど、翌日には「李紅さんが氷室様からイケメンドクターに乗り換えた」って話になってて、誤解を解くのに要らぬ労力を費やした。
どっちとも付き合ってないのに、無駄に疲れる。
迷惑なことに雅くんは、翌日の夕方に体験利用してそのまま入会してしまった。
元カノのいる職場に通うとか、何とも思わないのか、この人。思ってないんだろうなあ。
私がいるヨガクラスとか普通に参加してるし。
しかも、いつもの遠慮ない態度で接してくるからジムの女の子たちにまた変な誤解されるし。
もちろん、冬也さん推しのスタッフ、モエちゃんや他のみんなには、ただの大学の先輩とはっきり伝えてあるけど。
あ、元カレということはもちろん言ってないです。
◆
雅くんが入会してニ週間。
そして、冬也さんがパリに出張に行くと言ってから二週間。
その間、冬也さんからはメールも電話も来なかった。
仕事がすごく忙しいのか、それともクロエさんと親密な関係になって忙しいのかは分からない。
私のテンションはダダ下がりになって、芽生えたばかりの恋心は枯れつつあった。
やっぱり私は、恋愛は向いてない。
遅番のフィットネス勤務の後、雅くんにビールを飲みたいから付き合えと強引に9階のお洒落な居酒屋に連れていかれた。
テーブル席は埋まっていたので、カウンターに横並びで座る。
雅くんがフィットネスジムに通うようになり、連日のように顔を合わせるうちに、意識することがバカバカしくなってきた。
今はただの知り合いなんだから、普通でいいんだよね。
「お疲れー」
ジョッキをかちんとぶつけて乾杯したあと、ぐびっと一口。
「ぷはー、運動とか仕事とかお風呂の後のビールってなんでこう美味しいんだろ」
「体には良くないけどな」
先に食べたり他の水分摂らなきゃって知識はあるけど「でも止められないよなあ。最初の一杯」と雅くんもビールを飲んでいる。
「チェイサーも飲めよ」
「はいはい」
雅くんから水の入ったコップと一緒にお通しのモズク酢やらキャベツのざく切りを「食べろ」と促され、もしゃもしゃ食べた。
そういやこの人、こういう所がマメなんだよなあ。料理も掃除もちゃんとするし。
「雅くん、今も自炊してるんですか?」
「まあな。一人暮らしだし。料理好きだし苦じゃないよ」
「へえ。仕事忙しいだろうに偉いね」
「偉いねってお前、その口ぶりだと自炊してないな」
その質問には「うん」ときっぱり返事。
「だから家事をしてくれるヒモを養おうと思って絶賛募集中」
そう言うと、雅くんは目を見開いて、次に眉間にしわを寄せた。
「ヒモって、まさかあれか?ダメな男の、あのヒモ」
「うん。でもダメ男じゃなくて、いいヒモね。世の中には良いヒモもいるんです」
「……お前、へんなホストとかに引っかかってないだろうな」
いつか職場の同僚エリちゃんに言われたのと同じことを言われた。
まあ、普通はそう思うか。
そこで、良いヒモ彼の事例を詳しく熱く語り、説明した。理解してもらおうとは思ってないけど。
余計な恋愛感情のない、ビジネスライクなヒモ彼。家事と癒し。
良いわー。憧れるわー。やっぱ私にはこれだわ。
「家事って……ひとり分の家事がそんなに負担か? 俺は結婚してた時も仕事しながらやってたぞ」
ほほう。それはすごい。
「じゃあ奥さんと家事分担制だったの?ご飯は雅くんで奥さんが掃除担当とか?」
言った後でしまったと思った。そういえば結婚の話は禁句だって誰かが言ってた……。
「元、奥さんな。彼女は家事が嫌いだったから俺がやってたよ。掃除は時々クリーニングサービス頼んでたけど」
雅くんは気にしてないみたいに普通に答えてくれたけど。
「ごめん、変な事聞いて」
「ん?ああ、気にすんな。周りは気遣ってくれるけど、俺はそれほど気にしてないんだ。今思うと、根本的に彼女とは合わなかったんだよな。結婚当初から噛み合ってなくて、喧嘩ばかりでさ。お互いに神経をすり減らして終わったから疲れたし、振り返りたくはないけど、だからって腫物触るみたいに扱われてもな。李紅みたいに普通にしてくれたほうがいいよ」
雅くんはそう言って苦笑いした。
そうか。そうだよね。
私も雅くんに振られた時に、こわごわ声かけられたり顔色伺われたりして、気遣いは伝わったけどちょっと鬱陶しかったもんな。
「分かった。もう気遣わない」
「いや、李紅は少しは気遣え。むしろ気遣ってくれ、全体的に。俺の扱いが昔に比べてすげー雑。前の可愛かった李紅、カムバック」
「いえ、あの頃の私はもう居ません。新生・李紅です」
「嫌だ。今の李紅は可愛くない」
「可愛かった李紅は滅びました。残念だったな。はっはっは」
なんて、ぽんぽん言い合っていると昔に戻ったみたいな気分。
いや、昔とは違うか。
あの頃は追いかけるのに必死で、好きになって欲しくて、自分に余裕がまるでなかった。
夢中になっていない分、今の方が全然ラクだな。
恋心が無いってだけで、すごく気が楽。
少しでもよく見せようと見栄を張ったり、笑顔作ったり、話題を考えたりしなくてもいいし。
雅くんとはこんな関係がいい。
冬也さんとも色恋なしに、たまーに食事するようなメシ友にまたなれたらなあ。
うん、素の自分バンザイ。
恋は女の子を可愛くするっていうけど、私には不要。楽が一番。
このまま独身でも、恋愛しなくてもいいや。
彩芽も紗理奈もいるし、雅くんたちともこうやって時々ワイワイやる仲間でいれば、老後も寂しくない。
いつか、酸いも甘いも嚙分けた渋いおばあちゃんになったら、その時は恋してもいいかな。
70歳を過ぎれば、私もさすがに余裕のある、大人の恋ができるんじゃないだろうか。
「李紅」
「んー?」
ビールから日本酒に替えて、ほろ酔い気分でコップを傾けていると、片肘付いて右手に頭を乗せた雅くんが私の顔をじっと見ていた。
「お前、綺麗になったな。ふんわりっていうか柔らかくなったっていうか」
「それ太ったって言いたいんですか。これでも痩せたんですよ。15キロ太って10キロ痩せたの」
ベーコンにトマトって合うなー。モゴモゴ食べながら体重激変の話をすると、雅くんはびっくりしていた。
そういや雅くんが知ってる頃の私って、けっこう痩せてたんだった。
海外医療支援を目指してたから体力作りのために、毎日ランニングや筋トレをしてたし、大学生の頃はサバイバルサークルの活動もあったから日焼けしてたしね。
今はあの頃よりポチャってるし(太っているのではない)日焼けしてないから肌も白い。
「今のほうがいいよ。可愛い」
「ふん、ついさっき可愛くないって言ったくせに」
「綺麗になったし、可愛くなった」
「急にどうした。あ、もしかして酔ってる?」
「酔ってない。至って正常」
とか言ってるけど、目がとろんとしてる。
こりゃ酔っぱらってるな。
飲んでるひとが、酔っぱらってないって言う時はたいてい酔っている。
さて。十分、食べ飲んだことだし。
今日は平日、明日も仕事。帰りましょうかね。
「そろそろ帰ろう。これ以上飲むと雅くん寝そう」
「じゃあ李紅の家に行こう」
「はいはい、今度ね」
酔っ払いは無視。
会計をしてもらおうとお店のお兄さんに声を掛けたら、私がお財布を出している間に、雅くんは酔っ払いのくせに俊敏な動きで万札を渡していた。
「半分出すよ」
「はいはい、今度な」
雅くんは私の口真似で聞き流して、差し出したお金を頑として受け取ろうとしない。
仕方がない。今日はこの酔っ払いを家に帰すことにして、お金は後日返そう。
エレベーターに乗せたら余計に酔いそうだなあ。
ひとまず水をもう一杯飲ませてから…と思ったら雅くんがフラフラとと店の外に出て行った。うおーい。
慌てて後を追うと、店の前でぼんやり立って待ってた。よかった。
「エレベーター、乗れそう?そこのベンチで少し休む?」
「李紅」
「ん?気分悪い?水もらってこようか?」
顔を覗き込むと、目が合った。
酔ってるみたいだけど、呼んで目が合うなら大丈夫かな。
「付き合って」
「今からは無理だよ。今日は帰ろう。帰って寝た方がいいよ」
「違う。二件目に行こうって言ったんじゃない」
「いいから。雅くん、あそこの椅子に座ろう」
「いいから。とにかく聞けって」
落ち着けと言わんばかりに腕を取られて引き寄せられた。
お店の前でそれなりに人通りもあるというのに、キスでもしそうな至近距離で私をじっと見つめている。
「李紅。俺たち、結婚を前提に付き合わないか?」