恋愛生活習慣病
act.3
翌日から午前中はフィットネスジムでの仕事になった。水曜日はフィットネスのみの午後出勤で夜まで勤務。
クリニックとジムは、日頃から情報共有会議があるから行き来はあるけど、それ以外は具合の悪くなったお客様の緊急対応くらいでしかジムに行かないから変な感じ。
「鈴木さん、新宿店でアシスタントしてたってほんと?」
キョウコ先生はこの新プログラムの企画担当講師。
私はキョウコ先生の元で修行(と言う名のダイエット)とアシスタントをしながら、ビジネスマン向けヨガクラスの企画を一緒に立てることになった。
「はい。1年にもならないくらいですけど。インドから帰ってしばらくバイトしてました」
「え?インド?行ってたの?」
「あ、行ってたと言っても1年だけですよ?ヨガのプログラムに参加しに行ってて」
実は以前、ドはまりした時に勢いでインドに行ってインストラクターの資格を取った。
日本に帰ってきてもすぐに病院勤務をする気になれなくてフィットネスでバイトしてたんだけど、その時に同じ系列のクリニックが保健師または看護師を募集してるのを知り今のクリニックに就職した次第。
そんな話をすると
「なんだ。そんなに本格的にやってるなら1人でクラス持てるじゃない」
とキョウコ先生の表情が急に明るくなった。
心底ほっとしたような様子からして、ヨガをかじってる程度の素人デブナースを押し付けられたと思って困っていたのかもしれない。
「いやいやいや何言ってんですか無理ですよ。絶対に無理です」
両手を思いっきり振ると、二の腕の脂肪がぷるぷるする。体のどこかを動かすと連動して脂肪が震える。
ちなみにこんな体でキョウコ先生のようなお洒落なヨガウエアを着れるはずもなく、ここでの勤務時は上下ジャージ着用だ。
今日アシスタントに入ったマタニティクラスでは参加者だと思われたらしく、お客様に「何か月ですか?」と聞かれる始末。妊娠中期並みのお腹してるからね。あはは……。
フィットネスジムの室長に至っては、私のこの崩れ切ったボディラインを見て驚愕していた。
「あんた……これで保健指導なんてよくやってたわね。鏡見なさいよ。この体なに?信じらんない!」
完璧な筋肉デザインを得意とする室長(男)は私の自己管理能力の低さにたいそう立腹し、頼みもしないのにトレーニングメニューを組んでくれた。いらない。こんなのこなしたら死ぬ。
「む、無理です」
「あんたのブヨブヨのボディの方が無理よ。特別に組んであげたメニューなんだからやりなさい。さあ!」
「いえ、無理です。ベンチプレス30回5セットなんて毎日してたらマシュマロおっぱいが無くなります」
「はあ?どの辺がマシュマロ!?脂肪の塊がだらしなく垂れさがってるだけでしょ!」
「ぎゃー!掴まないでください!セクハラー!」
「胸も腹も同じ太さでどこが胸だかわかんないわよっ」
ぎゃあぎゃあ言うオネエ口調の室長とやりあうこと40分。
柔らかおっぱいが硬い大胸筋に変わるような運動メニューは何とか回避したけど、1か月で3キロ減、厳守と言い渡された。1ヶ月で落としていい体重は体重の5パーセントと言われてるからこれは妥当な数字なんだけど……。
毎日の体重グラフと食事内容記録も提出必須。宿題か。
「これはアタシからのプレゼントよ」
はい、と渡されたのはずっしりと重い高級プロテインの缶。
「来月の給料から天引きね。社割にしといてあげるから」
……いらない。
◇
日本では女性のエクササイズって印象が強いヨガだけど、欧米ではマインドフルネス(心のトレーニングのこと。瞑想などを行う)人気の影響もあってビジネスマンの間で流行っているらしい。
心身を鍛えるのに最適と研修プログラムに取り入れている世界的企業も多く、日本でもぼちぼち広がりつつあるので、これは需要がありそうだと本社が目を付けて、一流ビジネスマンの会員が多いSky Next TOKYO店でモデルクラス作ってみましょうってなったみたいだけど。
「普通のヨガクラスとの差異をつけろって分かんないっす」
キョウコ先生と作った企画書を会社に出したら、却下された。
ビジネスマン向けに特化してないから、だそうだ。
「週の真ん中の夕方、残業する前に短時間で心身のリセット。いいと思ったんだけど」
メンタルケアを重視した内容にしてみたんだけど、既存のクラスと似たり寄ったりなメニューだからダメらしい。
「そうだ!流行りのハイテンションジムを取り入れたらどうでしょう。暗闇でミラーボール回してイエーイ!って言いながらヨガするんです」
「いろいろ無理あるわよ、それ。メンタル休まらないでしょ」
「運動して汗かいたらすっきりして元気になるからそれでいいじゃないですか!ね!」
「そんなざっくりとした理由じゃダメだよ。もっと医療的視点を入れられないかな?」
「医療的……自律神経の乱れを整えるとかリラックスホルモンの分泌を促す…とか結構それらしい文言は入れたんですけどねー。うーん」
それらしい文言程度では企画書を読んだ人を誤魔化せなかったらしい。
「もう一度、洗い直しね。そうだ。この前の研修で聞いた話とか使えないかな」
「マインドフルネス認知療法のやつですか?そういや運動のことも話に出てましたね」
このところ、休みの日や勤務後に会社の勧める研修会や研究発表会に参加したり、学生の頃の教科書を引っ張り出したり、ネットや雑誌や図書館で資料を集めたりと忙しい。
久しぶりの勉強は、ぼけぼけの脳みその処理が追いつかず、知識として脳内に定着させるのに一苦労だ。
すぐに頭から流れ出てしまうものだから、何度も資料を見返している。こんなだから得た知識を上手く活かせないんだよなあ。
アホの子、つらい。
しかも体重が、なかなか減らない。1キロ減ったと思ったら0.8キロ増。グラフが変化しない。
食べる量を減らしてるからイライラするし。
お腹減った。美味しいもの食べたい。焼肉とかイチゴパフェとかフライドチキンとか食べたい。勉強もダイエットも面倒くさい。あーあ。
溜息を吐きながらジムの室長命令で書いている食事管理表の内容を改めてみる。
パスタとかご飯、肉類を我慢して豆腐食べて結構頑張ってるつもりなんだけど。
「カロリーを落としても痩せない…」
代謝が上手くいっていないのかな。炭水化物とタンパク質と脂質の摂取バランスが悪すぎるのか。そういえば最近、肌が乾燥している。炭水化物の3割は水分っていうし、炭水化物を抜き過ぎてるってこと?
ぬあー!企画だけじゃなくて自分の食事管理も見直し必要じゃん!
ああ、面倒くさい。
「こんばんはー。よろしくお願いします」
水曜19時のヨガクラスは、女性よりビジネスマンが多い。
だから週の真ん中で気分転換したい人が多いのかなと読んで、もう少し早い時間を設定したリセットヨガの企画を出したわけだけど……お客様の意見を聞いてみないと実際のところ分からないよね。誰か友だちになってくれないかなあ。
「鈴木さん、お疲れ様。もうすっかりインストラクターだねえ」
スタジオの入り口で挨拶をしていると、クリニックを定期受診されている野村常務から声を掛けられた。
こういうお客様は何人かいて、最初はクリニックのナースがなんでこんなとこに、と驚かれたけど、何かあっても安心だねとなぜか喜ばれた。まあ何かあったら、いないよりましって程度の頼りにならないナースですけどね。
「野村常務、お疲れ様です。今日もよろしくお願いします」
「ははは。お手柔らかにねー。そういや家でも魚のポーズ?あれやってみたんだけど…」
野村常務はここのビルに入っている化粧品会社のえらい人だけど、気さくで、なかなかお茶目なおじさまだ。
お腹の脂肪が悩みだけど甘い物とお酒が止められないぽっちゃり仲間で一緒にダイエット頑張ろうね!なんて言ってくれる。
「野村常務」
誰かが声を掛けてきたので、そちらに目を向けると、切れ長の目が涼やかな、息を吞むようなすごい美形がいた。
純粋な日本人ではなさそう。ハーフかクォーターかな。肌の色味と顔の造作が日本人のそれではない。
顔のパーツの配置も完璧なくらいに整っていて笑顔もないからちょっと人間離れしてる。
雰囲気も圧倒されるようなものを漂わせていて近寄りがたい感じ。
うわー、こんな人いるんだ。アンドロイドみたい。
あまりの美形ぶりに思わずごくりと唾を飲んだ。
でもどっかで見たことがあるような。
もしかして芸能人だろうか。雑誌かテレビで見たことがあるとか。
「ひ、氷室君!?」
「野村常務、先日はどうも」
「い、いや、君にはお世話になったね、いろいろと」
「こちらこそ、お世話になりました」
さくっと無表情に返事を返すヒムロさんって人に、野村常務がちょっと怯えているような気がするのは気のせいだろうか。
まあでもお知り合いみたいだし。
邪魔してはいけないので目礼をしてそっと場を去ろうとしたらイケメン様が「こちらの講師の方ですか?」となぜか私には話を振ってきた。
「え?ああ、そう、そう。ヨガクラスのアシスタントをしている鈴木さん。実は5階の内科クリニックのナースなんだけど」
野村常務が紹介してくれたので、軽く頭を下げた。直視したら目が潰れそうな美人なので視線はやや下に。
「ナースなのにヨガのアシスタントですか?」
ぎゃー、イケメン様がこっち見てるー。この締まりのない体を見ないでー。ほぼすっぴんだしジャージだしあんまり見ないでー。
「えっと、く、クリニックとここのフィットネスジムは同じ法人なんです。新しいヨガプログラムの関係で短期間、兼務することになって」
「ああ、それで」
返事がどもっちゃったけどイケメンの「ああ、それで」頂きました!
この人、声もすごいイイ。響くような低音ボイス。聴覚の記憶って側頭葉だっけ?脳内に焼き付けとこう。
「氷室くんとこんなところで会うなんて奇遇だね。こ、ここの会員だったの?」
「最近入会したんです。前は別のジムに通ってて」
「そう、そうか。じゃあ、僕はこのレッスンに参加するのでそろそろ失礼するよ」
心なしかその場を早く離れたい様子の野村常務だったけど、イケメン様の「よければご一緒させてください」の声に足を止め引きつった笑いを浮かべた。
うん、気のせいじゃなく引きつってる。野村常務、このイケメンが苦手なのかな。
「よ、ヨガだよ?」
「ええ。前から興味があって。初心者でも大丈夫ですか?」
後半は私に向けられたものだったので「ごく簡単なポーズなので大丈夫ですよ」なんて営業スマイル浮かべながら内心でガッツポーズ。
おお!今日はこのイケメンが参加だってよ!やったー!野村常務グッジョブ!
イケメン効果で顔が緩んで笑顔をいつもより2割増しにして他のお客様にも挨拶し、時間になったところでレッスンが始まった。
ここのフィットネスジムのお客様は素敵な女性も多いけど、フレッシュなイケメンからダンディなオジサマまで素敵な男性が多くて目の保養になる。
その中でも氷室さんの美男子ぶりは群を抜いていた。ダントツで今月のナンバーワン賞だな。
初めてといった割りに、体幹ができているのか、しなやかで綺麗なポーズができていた。美しい。
ちなみに私はキョウコ先生に「ちょっとお腹が出ている方でも大丈夫。このようにちゃんと折りたためますよー」なんて弄られながらお手本のポーズを取る役目である。
なにしろ15キロも太ったので動きづらくはあるんだけど、少しましになってきた。ましになってきただけで体は重い。
うーん、明日から朝練するかな。起きれたら。
このクラスは一日の仕事を終えて疲れた体と頭のリラックスを目的としたプログラムで45分と短い。
あっという間にレッスンは終了。
お客様を入り口でお見送りしながら、イケメン様がまた来てくれますようにと祈った。
クリニックとジムは、日頃から情報共有会議があるから行き来はあるけど、それ以外は具合の悪くなったお客様の緊急対応くらいでしかジムに行かないから変な感じ。
「鈴木さん、新宿店でアシスタントしてたってほんと?」
キョウコ先生はこの新プログラムの企画担当講師。
私はキョウコ先生の元で修行(と言う名のダイエット)とアシスタントをしながら、ビジネスマン向けヨガクラスの企画を一緒に立てることになった。
「はい。1年にもならないくらいですけど。インドから帰ってしばらくバイトしてました」
「え?インド?行ってたの?」
「あ、行ってたと言っても1年だけですよ?ヨガのプログラムに参加しに行ってて」
実は以前、ドはまりした時に勢いでインドに行ってインストラクターの資格を取った。
日本に帰ってきてもすぐに病院勤務をする気になれなくてフィットネスでバイトしてたんだけど、その時に同じ系列のクリニックが保健師または看護師を募集してるのを知り今のクリニックに就職した次第。
そんな話をすると
「なんだ。そんなに本格的にやってるなら1人でクラス持てるじゃない」
とキョウコ先生の表情が急に明るくなった。
心底ほっとしたような様子からして、ヨガをかじってる程度の素人デブナースを押し付けられたと思って困っていたのかもしれない。
「いやいやいや何言ってんですか無理ですよ。絶対に無理です」
両手を思いっきり振ると、二の腕の脂肪がぷるぷるする。体のどこかを動かすと連動して脂肪が震える。
ちなみにこんな体でキョウコ先生のようなお洒落なヨガウエアを着れるはずもなく、ここでの勤務時は上下ジャージ着用だ。
今日アシスタントに入ったマタニティクラスでは参加者だと思われたらしく、お客様に「何か月ですか?」と聞かれる始末。妊娠中期並みのお腹してるからね。あはは……。
フィットネスジムの室長に至っては、私のこの崩れ切ったボディラインを見て驚愕していた。
「あんた……これで保健指導なんてよくやってたわね。鏡見なさいよ。この体なに?信じらんない!」
完璧な筋肉デザインを得意とする室長(男)は私の自己管理能力の低さにたいそう立腹し、頼みもしないのにトレーニングメニューを組んでくれた。いらない。こんなのこなしたら死ぬ。
「む、無理です」
「あんたのブヨブヨのボディの方が無理よ。特別に組んであげたメニューなんだからやりなさい。さあ!」
「いえ、無理です。ベンチプレス30回5セットなんて毎日してたらマシュマロおっぱいが無くなります」
「はあ?どの辺がマシュマロ!?脂肪の塊がだらしなく垂れさがってるだけでしょ!」
「ぎゃー!掴まないでください!セクハラー!」
「胸も腹も同じ太さでどこが胸だかわかんないわよっ」
ぎゃあぎゃあ言うオネエ口調の室長とやりあうこと40分。
柔らかおっぱいが硬い大胸筋に変わるような運動メニューは何とか回避したけど、1か月で3キロ減、厳守と言い渡された。1ヶ月で落としていい体重は体重の5パーセントと言われてるからこれは妥当な数字なんだけど……。
毎日の体重グラフと食事内容記録も提出必須。宿題か。
「これはアタシからのプレゼントよ」
はい、と渡されたのはずっしりと重い高級プロテインの缶。
「来月の給料から天引きね。社割にしといてあげるから」
……いらない。
◇
日本では女性のエクササイズって印象が強いヨガだけど、欧米ではマインドフルネス(心のトレーニングのこと。瞑想などを行う)人気の影響もあってビジネスマンの間で流行っているらしい。
心身を鍛えるのに最適と研修プログラムに取り入れている世界的企業も多く、日本でもぼちぼち広がりつつあるので、これは需要がありそうだと本社が目を付けて、一流ビジネスマンの会員が多いSky Next TOKYO店でモデルクラス作ってみましょうってなったみたいだけど。
「普通のヨガクラスとの差異をつけろって分かんないっす」
キョウコ先生と作った企画書を会社に出したら、却下された。
ビジネスマン向けに特化してないから、だそうだ。
「週の真ん中の夕方、残業する前に短時間で心身のリセット。いいと思ったんだけど」
メンタルケアを重視した内容にしてみたんだけど、既存のクラスと似たり寄ったりなメニューだからダメらしい。
「そうだ!流行りのハイテンションジムを取り入れたらどうでしょう。暗闇でミラーボール回してイエーイ!って言いながらヨガするんです」
「いろいろ無理あるわよ、それ。メンタル休まらないでしょ」
「運動して汗かいたらすっきりして元気になるからそれでいいじゃないですか!ね!」
「そんなざっくりとした理由じゃダメだよ。もっと医療的視点を入れられないかな?」
「医療的……自律神経の乱れを整えるとかリラックスホルモンの分泌を促す…とか結構それらしい文言は入れたんですけどねー。うーん」
それらしい文言程度では企画書を読んだ人を誤魔化せなかったらしい。
「もう一度、洗い直しね。そうだ。この前の研修で聞いた話とか使えないかな」
「マインドフルネス認知療法のやつですか?そういや運動のことも話に出てましたね」
このところ、休みの日や勤務後に会社の勧める研修会や研究発表会に参加したり、学生の頃の教科書を引っ張り出したり、ネットや雑誌や図書館で資料を集めたりと忙しい。
久しぶりの勉強は、ぼけぼけの脳みその処理が追いつかず、知識として脳内に定着させるのに一苦労だ。
すぐに頭から流れ出てしまうものだから、何度も資料を見返している。こんなだから得た知識を上手く活かせないんだよなあ。
アホの子、つらい。
しかも体重が、なかなか減らない。1キロ減ったと思ったら0.8キロ増。グラフが変化しない。
食べる量を減らしてるからイライラするし。
お腹減った。美味しいもの食べたい。焼肉とかイチゴパフェとかフライドチキンとか食べたい。勉強もダイエットも面倒くさい。あーあ。
溜息を吐きながらジムの室長命令で書いている食事管理表の内容を改めてみる。
パスタとかご飯、肉類を我慢して豆腐食べて結構頑張ってるつもりなんだけど。
「カロリーを落としても痩せない…」
代謝が上手くいっていないのかな。炭水化物とタンパク質と脂質の摂取バランスが悪すぎるのか。そういえば最近、肌が乾燥している。炭水化物の3割は水分っていうし、炭水化物を抜き過ぎてるってこと?
ぬあー!企画だけじゃなくて自分の食事管理も見直し必要じゃん!
ああ、面倒くさい。
「こんばんはー。よろしくお願いします」
水曜19時のヨガクラスは、女性よりビジネスマンが多い。
だから週の真ん中で気分転換したい人が多いのかなと読んで、もう少し早い時間を設定したリセットヨガの企画を出したわけだけど……お客様の意見を聞いてみないと実際のところ分からないよね。誰か友だちになってくれないかなあ。
「鈴木さん、お疲れ様。もうすっかりインストラクターだねえ」
スタジオの入り口で挨拶をしていると、クリニックを定期受診されている野村常務から声を掛けられた。
こういうお客様は何人かいて、最初はクリニックのナースがなんでこんなとこに、と驚かれたけど、何かあっても安心だねとなぜか喜ばれた。まあ何かあったら、いないよりましって程度の頼りにならないナースですけどね。
「野村常務、お疲れ様です。今日もよろしくお願いします」
「ははは。お手柔らかにねー。そういや家でも魚のポーズ?あれやってみたんだけど…」
野村常務はここのビルに入っている化粧品会社のえらい人だけど、気さくで、なかなかお茶目なおじさまだ。
お腹の脂肪が悩みだけど甘い物とお酒が止められないぽっちゃり仲間で一緒にダイエット頑張ろうね!なんて言ってくれる。
「野村常務」
誰かが声を掛けてきたので、そちらに目を向けると、切れ長の目が涼やかな、息を吞むようなすごい美形がいた。
純粋な日本人ではなさそう。ハーフかクォーターかな。肌の色味と顔の造作が日本人のそれではない。
顔のパーツの配置も完璧なくらいに整っていて笑顔もないからちょっと人間離れしてる。
雰囲気も圧倒されるようなものを漂わせていて近寄りがたい感じ。
うわー、こんな人いるんだ。アンドロイドみたい。
あまりの美形ぶりに思わずごくりと唾を飲んだ。
でもどっかで見たことがあるような。
もしかして芸能人だろうか。雑誌かテレビで見たことがあるとか。
「ひ、氷室君!?」
「野村常務、先日はどうも」
「い、いや、君にはお世話になったね、いろいろと」
「こちらこそ、お世話になりました」
さくっと無表情に返事を返すヒムロさんって人に、野村常務がちょっと怯えているような気がするのは気のせいだろうか。
まあでもお知り合いみたいだし。
邪魔してはいけないので目礼をしてそっと場を去ろうとしたらイケメン様が「こちらの講師の方ですか?」となぜか私には話を振ってきた。
「え?ああ、そう、そう。ヨガクラスのアシスタントをしている鈴木さん。実は5階の内科クリニックのナースなんだけど」
野村常務が紹介してくれたので、軽く頭を下げた。直視したら目が潰れそうな美人なので視線はやや下に。
「ナースなのにヨガのアシスタントですか?」
ぎゃー、イケメン様がこっち見てるー。この締まりのない体を見ないでー。ほぼすっぴんだしジャージだしあんまり見ないでー。
「えっと、く、クリニックとここのフィットネスジムは同じ法人なんです。新しいヨガプログラムの関係で短期間、兼務することになって」
「ああ、それで」
返事がどもっちゃったけどイケメンの「ああ、それで」頂きました!
この人、声もすごいイイ。響くような低音ボイス。聴覚の記憶って側頭葉だっけ?脳内に焼き付けとこう。
「氷室くんとこんなところで会うなんて奇遇だね。こ、ここの会員だったの?」
「最近入会したんです。前は別のジムに通ってて」
「そう、そうか。じゃあ、僕はこのレッスンに参加するのでそろそろ失礼するよ」
心なしかその場を早く離れたい様子の野村常務だったけど、イケメン様の「よければご一緒させてください」の声に足を止め引きつった笑いを浮かべた。
うん、気のせいじゃなく引きつってる。野村常務、このイケメンが苦手なのかな。
「よ、ヨガだよ?」
「ええ。前から興味があって。初心者でも大丈夫ですか?」
後半は私に向けられたものだったので「ごく簡単なポーズなので大丈夫ですよ」なんて営業スマイル浮かべながら内心でガッツポーズ。
おお!今日はこのイケメンが参加だってよ!やったー!野村常務グッジョブ!
イケメン効果で顔が緩んで笑顔をいつもより2割増しにして他のお客様にも挨拶し、時間になったところでレッスンが始まった。
ここのフィットネスジムのお客様は素敵な女性も多いけど、フレッシュなイケメンからダンディなオジサマまで素敵な男性が多くて目の保養になる。
その中でも氷室さんの美男子ぶりは群を抜いていた。ダントツで今月のナンバーワン賞だな。
初めてといった割りに、体幹ができているのか、しなやかで綺麗なポーズができていた。美しい。
ちなみに私はキョウコ先生に「ちょっとお腹が出ている方でも大丈夫。このようにちゃんと折りたためますよー」なんて弄られながらお手本のポーズを取る役目である。
なにしろ15キロも太ったので動きづらくはあるんだけど、少しましになってきた。ましになってきただけで体は重い。
うーん、明日から朝練するかな。起きれたら。
このクラスは一日の仕事を終えて疲れた体と頭のリラックスを目的としたプログラムで45分と短い。
あっという間にレッスンは終了。
お客様を入り口でお見送りしながら、イケメン様がまた来てくれますようにと祈った。