恋愛生活習慣病
act.4
水曜日に眼福を与えてくれたイケメン様はまめにジムに通っているらしく、スタッフ内でも「最近すごいイケメンが来ている」と話題になっていた。
スイミング担当スタッフのモエちゃんが、個人情報なので大きな声では言えないんですけど、と前置きした上でこっそり
「名前は氷室冬也(ひむろとうや)さん、33歳。独身。マッキンリー・アンド・カンパニーにお勤めだそうです」
と教えてくれた。
私が、あーその社名聞いたことあるよーと薄い反応を返すと「李紅さん起きてます?世界三大コンサルのマッキンリーですよ?平均年収が二千万を超えるって会社ですよ?氷室さん、いえ氷室様はあのビジュアルで高スペックで高収入で独身なんですよ!その低いテンションは何ですか」と怒られた。
ふんがーと鼻息荒いモエちゃんを、まあまあと宥めながらなるほどねーと納得。
それだけの超優良物件なら目の色も変わるわな。すごすぎて私には現実味がない物件ですが。
ちなみにマッキンリーなる会社はここのビルのオフィスフロア最上階のワンフロアを占めているそうだ。氷室さんてまさに天上人。
55階立ての高層ビル、Sky Next TOKYOは都内でも交通アクセスが抜群な所にあって、再開発が進みさらに街が整備されているこの地区のシンボルタワーになっている。
8階から下は高級でお洒落で特別感が漂う飲食店や高級ブティック、美容系サロンが入店し、上階は5つ星ホテルとオフィス、53階より上は超高級マンションやら高級バー、会員制VIPフロアやらがあって、つまりどえらいお洒落ビルなのだ。
通勤しやすそうだし新しいから綺麗そうという理由で今のクリニックに就職したけど、お洒落感が半端なくてちょっと後悔した。
今話しているモエちゃんは、ここのジムで募集が出たときに店舗移動願いを出したそうだ。
異動希望者が多くてすごい倍率だったんで、希望が通ってラッキーでしたと嬉しそうに話していた。
モエちゃんはこう見えて水泳エリートの過去を持ち、可愛くて性格もいい美人さんなので高倍率に勝ったのも納得。
ジムの室長もマスコミ取材をよく受けるような有名オネエトレーナーだし、ヨガ講師のキョウコ先生は人気ヨガ講師だから全国のイベントや他店の特別レッスンに招かれることも多いと聞いた。
クリニックの院長も『血糖コントロールの魔術師』の異名を持つ糖尿病治療の名医だったりするし。
私自身は看護師歴が一応年5あるし、同系列のヨガスタジオでバイトしていたことがプラスになって運良く採用されたんだと思うけど、入職してみればさすがSky Next TOKYO、フィットネスやクリニックでもそんなエリート感がある所だった。
オフィスエリアは言うまでもなく、ハイスペックエリートだらけ。
マッキンリー以外にも世界に名を連ねる大企業や、勢いのある有名ベンチャー企業が多数入っていて、そこで働く人たちのお給料もとんでもなくいいらしい。
右を見ても左を見ても、デキるオーラ背負ってる人だらけ。
男女とも、仕事ができそうで頭が良さそうで、且つお洒落にビシッときめてるひとが颯爽と歩いているのをよく見かける。
このビルで働いていると言うと「玉の輿イイね!」と言われることが多いけど、玉の輿に乗る人は厳正なる振るいにかけられ美人でかつ社交的な女子が選抜されるものだ。
ビル内を行き交うハイスペック男子たちと自分がどうにかなるとは到底思えない。
あれは二次元の生き物で観賞用と私は思っている。
先日からジムに来ている氷室さん、もとい氷室様なんて、もろ観賞用だ。
「それでね李紅さん。氷室様ってアスリート体型じゃないけど筋肉の付き方が綺麗なんですよ!締まった筋肉でいいボディ。男は体も大事ですよねー」
「……モエちゃん、よく見てるね」
「氷室様、プールをよく利用されるんです。外国人のお客様とよくお話されてるんですけど、たぶんあれフランス語と中国語だと思う。デキるエリートかっこいい」
モエちゃん、目がハート。
現在、モエちゃんの推しメンは氷室様。切れ長の目と薄い唇とクールな雰囲気がどストライクなんだそうだ。
ちなみにマッチョなオネエ口調の室長・35歳も氷室様推しらしい。
氷室様に話しかけられて頬を赤らめる様子が乙女だったとモエちゃん弁。
室長……あんな人がタイプなのか。
私も涼やかで綺麗な顔スキーだから室長と好みが似てるってこと?
「氷室様を愛でる会」に入会した(させられた)ものの残念ながら私は基本ジムは午前中勤務なので、水曜日の夜くらいしか氷室様を拝める機会はないなあと思ってたんだけど。
練り直している企画書のことでキョウコ先生に相談があって、夕方、ジムに行こうとしたら氷室様を見かけた。
内階段で5階から6階に行こうとしたんだけど、半分近く上がったところで上から男女の声がして、その男性が氷室様だった。
ショートパンツにパーカー姿だからジムに来てたっぽい。
「いい加減にしてくれないか。こんな場所にまで来るなんて君はどうかしている」
「だって電話してもメールしても連絡とれないんだもん。だったらあたしが会いに来るしかないでしょ。それにマネージャーから週3はジムに通えって言われてるしちょうどいいの。一緒に居られるし一石二鳥でしょ」
あからさまに迷惑そうな氷室様に対してあっけらかんとした明るい女性の声。
ちょっと舌足らずな可愛い声だ。今の話から察するに氷室様に会うためにジムに押しかけた様子。
角度で顔は見えないけどこちらもフィットネスウエアを着ている。
押しの強い美人(推定)の顔を見たいような気はするけど、盗み聞きする趣味はないので立ち去ろうと体をそっと反転したのだけど。
「迷惑だ。君と過ごすつもりはない。帰ってくれ」
「ちょっとー。冬也ったら愛しい彼女に対してその言い方はひどくない?」
「……彼女?なんのことだ。俺は君と付き合っているつもりはない」
「はあ?まさかこの前のモデルと付き合ってるって言うんじゃないでしょうね」
聞きたくないんですけど彼女の(付き合ってるつもりはないって言われてたから実は彼女じゃなかったみたいだけど)声が大きいです。丸聞こえですよー。
音を立てないように抜き足差し足で階段を下りている間にも修羅場な会話が背後から聞こえてしまう。
「誰のことを言ってるのか知らないが、俺は誰とも付き合ってはいないし付き合う気もない」
「んもう。じゃあ、あたしを彼女にしてよ。恋人にして。ね?」
甘く鈴を転がすような声でお願いされたのに、氷室様は容赦無く氷の剣でぶった切った。
「断る。恋愛なんて生活を乱すだけだ。何のメリットもないし時間の無駄だよ」
うわー。恋愛否定したよこの人。
しん、と冷えた沈黙の後、恋人になりそこねた彼女は怒って「ばか!」と捨て台詞を残し階段を下りてきた。
すれ違いざま、ドンとぶつかられて「痛い!そこどいて」と怒られた。
あ。この人知ってる。
ちらっと顔を見たら、毎週木曜日の22時にテレビで見ている顔だった。
女優の吉瀬ユイカ。
今季ドラマで1番視聴率を取ってるあのドラマの主演。え?本物?
衝撃の出来事に唖然としていると、カツン、と階段を下りる別の足音を耳が拾った。
はっとして振り返ると、はい氷室様と目が合いました。あああ……。
「……こんばんは」
「こんばんは」
気まずい。やばい。どうしよ。
「では、私はこれで。お大事に!」
引きつった笑顔とナースの決め台詞を放ち、私は階段を駆け下りて逃げた。
◇
タイミングがいいと言うべきか悪いと言うべきかその日は木曜日。
毎週楽しみにしているドラマを、私は微妙な気持ちで見た。
吉瀬ユイカはとっても美人で演技派だけど、天然ボケな発言が面白い人気女優である。
吉瀬ユイカは……吉瀬ユイカが……吉瀬ユイカだけど……吉瀬ユイカなのに……
氷室様に振られていた。
あり得ない!だって吉瀬ユイカだよ!?可愛い!好き!憧れる!
代われるものなら取って代わりたいあの顔と体。
雰囲気も可愛いしトークも面白いからきっと頭の回転もいい。台詞覚えられるから記憶力もいいし。
男だったら土下座して付き合いたいような美人女優なのに、氷室様ったらサクッと振ってた。
世の中理解できないことだらけだ。
あんな芸能人とどうやって知り合ったのか知らないけど、あんな美人でキュートな女性なんだからとりあえず付き合ってみればいいのに、恋人にしてという魅惑的な申し出をあんなあっさり却下するなんて。
それとも氷室様は美形ハイパービジネスマンだから高レベルな女にモテまくってて吉瀬ユイカを振っても惜しくないとか。
どんなモテレベルだよそれ。
憧れの女優、吉瀬ユイカが振られたのを見てしまって私は結構ショックを受けていた。
あんな美貌と魅惑のボディでも叶わないことがあるなんて。
じゃあ私の平凡な顔と、このダルダルのたぷんたぷんボディはどうなる。
……ダメだ。落ち込むな考え込むな。
ありのままの自分、事象を受け入れるのよ。瞑想。マインドフルネス。
こんな時こそ朝練である。
もんもんとして寝付いたせいか、あまりよく眠れず、金曜日はどんよりとした気分で目覚めた。
今週から朝練を初めて5日目。早起きが習慣になったとは言い切れないけど、重い体を引きずって今日も頑張る。
フィットネスジムの一番奥まった場所にあるスタジオは東向きだ。
誰もいないスタジオで朝日を浴びながらのヨガは気持ちがいい。
スタジオ施設を時間外に個人で利用するのは基本ダメなんだけど、研修や研究目的なら可なのでヨガ企画の立案のためと言って利用させてもらっている。
スタジオもいいけど外でできたらもっと気持ち良いだろうけどなー。ビル裏のガーデンでヨガできないかな。
なんてことを考えながら体をほぐしていると、流してたヒーリング音楽CDが終わったみたいで音が途切れた。
CDを変えようと壁に設置されたラックを漁っていて見つけたのは、エアロビクスで使うCD。
ちょっと流してみるとサンバぽいリズム音。
あ、これコアリズムできそう。
実は私、コアリズムを自宅で入浴前の習慣にしようと思って3日前から始めたところだ。
実家の母にダイエットを始めたと話したら、米や野菜などの食料と一緒にコアリズムのDVDを送ってきた。母のお古らしい。
あの人はダイエットが趣味で新しいダイエットに挑戦してはすぐ飽きるから家にはDVDやら器具やグッズや謎の飲料が溢れている。
ちなみに持続しないので成功した試しはない。
ま、それはいいとしてちょっとやってみようかな。
ここだと全身が映る鏡があるし、自宅アパートだと下の階やお隣が気になって思いっきりできないんだよね。
「痩せたいなら腰を回しなさい」と美魔女女優も言ってたし、ウエスト細くしてくびれてやるぞ。
サンバミュージックにCDを変えてうろ覚えな踊りをスタート。
細かい振りはあんまり覚えてないけど要は腰よね、腰。
両手を上げて腰を回す動きがタコ踊りぽいけど誰もいないから気にしなーい。
10分もするとテンションが上がってきてステップ入れながら腰をぐるぐる。
あ、これ顔トレも入れたらさらにいいんじゃね?と思いつき、大口開けて「あ、い、う、え、お」と言いながらサンバサンバ。
おお、効きそうこれ。楽しくなってきた!
お尻で割りばしを割るイメージでお尻に力を入れながら腹筋意識して腰を前にー。ハイ右に腰回してー。左に腰回してー。
そして気が付いた。
鏡には一心不乱に変顔しながら腰を回している自分の姿だけでなく、大きな無色透明のドア越しにトレーニングルームが映っていた。
そしてそこに早朝トレーニングにやってきたらしい男性の姿が。
口とお腹を押さえて必死で笑いを堪えている、氷室様だった。
スイミング担当スタッフのモエちゃんが、個人情報なので大きな声では言えないんですけど、と前置きした上でこっそり
「名前は氷室冬也(ひむろとうや)さん、33歳。独身。マッキンリー・アンド・カンパニーにお勤めだそうです」
と教えてくれた。
私が、あーその社名聞いたことあるよーと薄い反応を返すと「李紅さん起きてます?世界三大コンサルのマッキンリーですよ?平均年収が二千万を超えるって会社ですよ?氷室さん、いえ氷室様はあのビジュアルで高スペックで高収入で独身なんですよ!その低いテンションは何ですか」と怒られた。
ふんがーと鼻息荒いモエちゃんを、まあまあと宥めながらなるほどねーと納得。
それだけの超優良物件なら目の色も変わるわな。すごすぎて私には現実味がない物件ですが。
ちなみにマッキンリーなる会社はここのビルのオフィスフロア最上階のワンフロアを占めているそうだ。氷室さんてまさに天上人。
55階立ての高層ビル、Sky Next TOKYOは都内でも交通アクセスが抜群な所にあって、再開発が進みさらに街が整備されているこの地区のシンボルタワーになっている。
8階から下は高級でお洒落で特別感が漂う飲食店や高級ブティック、美容系サロンが入店し、上階は5つ星ホテルとオフィス、53階より上は超高級マンションやら高級バー、会員制VIPフロアやらがあって、つまりどえらいお洒落ビルなのだ。
通勤しやすそうだし新しいから綺麗そうという理由で今のクリニックに就職したけど、お洒落感が半端なくてちょっと後悔した。
今話しているモエちゃんは、ここのジムで募集が出たときに店舗移動願いを出したそうだ。
異動希望者が多くてすごい倍率だったんで、希望が通ってラッキーでしたと嬉しそうに話していた。
モエちゃんはこう見えて水泳エリートの過去を持ち、可愛くて性格もいい美人さんなので高倍率に勝ったのも納得。
ジムの室長もマスコミ取材をよく受けるような有名オネエトレーナーだし、ヨガ講師のキョウコ先生は人気ヨガ講師だから全国のイベントや他店の特別レッスンに招かれることも多いと聞いた。
クリニックの院長も『血糖コントロールの魔術師』の異名を持つ糖尿病治療の名医だったりするし。
私自身は看護師歴が一応年5あるし、同系列のヨガスタジオでバイトしていたことがプラスになって運良く採用されたんだと思うけど、入職してみればさすがSky Next TOKYO、フィットネスやクリニックでもそんなエリート感がある所だった。
オフィスエリアは言うまでもなく、ハイスペックエリートだらけ。
マッキンリー以外にも世界に名を連ねる大企業や、勢いのある有名ベンチャー企業が多数入っていて、そこで働く人たちのお給料もとんでもなくいいらしい。
右を見ても左を見ても、デキるオーラ背負ってる人だらけ。
男女とも、仕事ができそうで頭が良さそうで、且つお洒落にビシッときめてるひとが颯爽と歩いているのをよく見かける。
このビルで働いていると言うと「玉の輿イイね!」と言われることが多いけど、玉の輿に乗る人は厳正なる振るいにかけられ美人でかつ社交的な女子が選抜されるものだ。
ビル内を行き交うハイスペック男子たちと自分がどうにかなるとは到底思えない。
あれは二次元の生き物で観賞用と私は思っている。
先日からジムに来ている氷室さん、もとい氷室様なんて、もろ観賞用だ。
「それでね李紅さん。氷室様ってアスリート体型じゃないけど筋肉の付き方が綺麗なんですよ!締まった筋肉でいいボディ。男は体も大事ですよねー」
「……モエちゃん、よく見てるね」
「氷室様、プールをよく利用されるんです。外国人のお客様とよくお話されてるんですけど、たぶんあれフランス語と中国語だと思う。デキるエリートかっこいい」
モエちゃん、目がハート。
現在、モエちゃんの推しメンは氷室様。切れ長の目と薄い唇とクールな雰囲気がどストライクなんだそうだ。
ちなみにマッチョなオネエ口調の室長・35歳も氷室様推しらしい。
氷室様に話しかけられて頬を赤らめる様子が乙女だったとモエちゃん弁。
室長……あんな人がタイプなのか。
私も涼やかで綺麗な顔スキーだから室長と好みが似てるってこと?
「氷室様を愛でる会」に入会した(させられた)ものの残念ながら私は基本ジムは午前中勤務なので、水曜日の夜くらいしか氷室様を拝める機会はないなあと思ってたんだけど。
練り直している企画書のことでキョウコ先生に相談があって、夕方、ジムに行こうとしたら氷室様を見かけた。
内階段で5階から6階に行こうとしたんだけど、半分近く上がったところで上から男女の声がして、その男性が氷室様だった。
ショートパンツにパーカー姿だからジムに来てたっぽい。
「いい加減にしてくれないか。こんな場所にまで来るなんて君はどうかしている」
「だって電話してもメールしても連絡とれないんだもん。だったらあたしが会いに来るしかないでしょ。それにマネージャーから週3はジムに通えって言われてるしちょうどいいの。一緒に居られるし一石二鳥でしょ」
あからさまに迷惑そうな氷室様に対してあっけらかんとした明るい女性の声。
ちょっと舌足らずな可愛い声だ。今の話から察するに氷室様に会うためにジムに押しかけた様子。
角度で顔は見えないけどこちらもフィットネスウエアを着ている。
押しの強い美人(推定)の顔を見たいような気はするけど、盗み聞きする趣味はないので立ち去ろうと体をそっと反転したのだけど。
「迷惑だ。君と過ごすつもりはない。帰ってくれ」
「ちょっとー。冬也ったら愛しい彼女に対してその言い方はひどくない?」
「……彼女?なんのことだ。俺は君と付き合っているつもりはない」
「はあ?まさかこの前のモデルと付き合ってるって言うんじゃないでしょうね」
聞きたくないんですけど彼女の(付き合ってるつもりはないって言われてたから実は彼女じゃなかったみたいだけど)声が大きいです。丸聞こえですよー。
音を立てないように抜き足差し足で階段を下りている間にも修羅場な会話が背後から聞こえてしまう。
「誰のことを言ってるのか知らないが、俺は誰とも付き合ってはいないし付き合う気もない」
「んもう。じゃあ、あたしを彼女にしてよ。恋人にして。ね?」
甘く鈴を転がすような声でお願いされたのに、氷室様は容赦無く氷の剣でぶった切った。
「断る。恋愛なんて生活を乱すだけだ。何のメリットもないし時間の無駄だよ」
うわー。恋愛否定したよこの人。
しん、と冷えた沈黙の後、恋人になりそこねた彼女は怒って「ばか!」と捨て台詞を残し階段を下りてきた。
すれ違いざま、ドンとぶつかられて「痛い!そこどいて」と怒られた。
あ。この人知ってる。
ちらっと顔を見たら、毎週木曜日の22時にテレビで見ている顔だった。
女優の吉瀬ユイカ。
今季ドラマで1番視聴率を取ってるあのドラマの主演。え?本物?
衝撃の出来事に唖然としていると、カツン、と階段を下りる別の足音を耳が拾った。
はっとして振り返ると、はい氷室様と目が合いました。あああ……。
「……こんばんは」
「こんばんは」
気まずい。やばい。どうしよ。
「では、私はこれで。お大事に!」
引きつった笑顔とナースの決め台詞を放ち、私は階段を駆け下りて逃げた。
◇
タイミングがいいと言うべきか悪いと言うべきかその日は木曜日。
毎週楽しみにしているドラマを、私は微妙な気持ちで見た。
吉瀬ユイカはとっても美人で演技派だけど、天然ボケな発言が面白い人気女優である。
吉瀬ユイカは……吉瀬ユイカが……吉瀬ユイカだけど……吉瀬ユイカなのに……
氷室様に振られていた。
あり得ない!だって吉瀬ユイカだよ!?可愛い!好き!憧れる!
代われるものなら取って代わりたいあの顔と体。
雰囲気も可愛いしトークも面白いからきっと頭の回転もいい。台詞覚えられるから記憶力もいいし。
男だったら土下座して付き合いたいような美人女優なのに、氷室様ったらサクッと振ってた。
世の中理解できないことだらけだ。
あんな芸能人とどうやって知り合ったのか知らないけど、あんな美人でキュートな女性なんだからとりあえず付き合ってみればいいのに、恋人にしてという魅惑的な申し出をあんなあっさり却下するなんて。
それとも氷室様は美形ハイパービジネスマンだから高レベルな女にモテまくってて吉瀬ユイカを振っても惜しくないとか。
どんなモテレベルだよそれ。
憧れの女優、吉瀬ユイカが振られたのを見てしまって私は結構ショックを受けていた。
あんな美貌と魅惑のボディでも叶わないことがあるなんて。
じゃあ私の平凡な顔と、このダルダルのたぷんたぷんボディはどうなる。
……ダメだ。落ち込むな考え込むな。
ありのままの自分、事象を受け入れるのよ。瞑想。マインドフルネス。
こんな時こそ朝練である。
もんもんとして寝付いたせいか、あまりよく眠れず、金曜日はどんよりとした気分で目覚めた。
今週から朝練を初めて5日目。早起きが習慣になったとは言い切れないけど、重い体を引きずって今日も頑張る。
フィットネスジムの一番奥まった場所にあるスタジオは東向きだ。
誰もいないスタジオで朝日を浴びながらのヨガは気持ちがいい。
スタジオ施設を時間外に個人で利用するのは基本ダメなんだけど、研修や研究目的なら可なのでヨガ企画の立案のためと言って利用させてもらっている。
スタジオもいいけど外でできたらもっと気持ち良いだろうけどなー。ビル裏のガーデンでヨガできないかな。
なんてことを考えながら体をほぐしていると、流してたヒーリング音楽CDが終わったみたいで音が途切れた。
CDを変えようと壁に設置されたラックを漁っていて見つけたのは、エアロビクスで使うCD。
ちょっと流してみるとサンバぽいリズム音。
あ、これコアリズムできそう。
実は私、コアリズムを自宅で入浴前の習慣にしようと思って3日前から始めたところだ。
実家の母にダイエットを始めたと話したら、米や野菜などの食料と一緒にコアリズムのDVDを送ってきた。母のお古らしい。
あの人はダイエットが趣味で新しいダイエットに挑戦してはすぐ飽きるから家にはDVDやら器具やグッズや謎の飲料が溢れている。
ちなみに持続しないので成功した試しはない。
ま、それはいいとしてちょっとやってみようかな。
ここだと全身が映る鏡があるし、自宅アパートだと下の階やお隣が気になって思いっきりできないんだよね。
「痩せたいなら腰を回しなさい」と美魔女女優も言ってたし、ウエスト細くしてくびれてやるぞ。
サンバミュージックにCDを変えてうろ覚えな踊りをスタート。
細かい振りはあんまり覚えてないけど要は腰よね、腰。
両手を上げて腰を回す動きがタコ踊りぽいけど誰もいないから気にしなーい。
10分もするとテンションが上がってきてステップ入れながら腰をぐるぐる。
あ、これ顔トレも入れたらさらにいいんじゃね?と思いつき、大口開けて「あ、い、う、え、お」と言いながらサンバサンバ。
おお、効きそうこれ。楽しくなってきた!
お尻で割りばしを割るイメージでお尻に力を入れながら腹筋意識して腰を前にー。ハイ右に腰回してー。左に腰回してー。
そして気が付いた。
鏡には一心不乱に変顔しながら腰を回している自分の姿だけでなく、大きな無色透明のドア越しにトレーニングルームが映っていた。
そしてそこに早朝トレーニングにやってきたらしい男性の姿が。
口とお腹を押さえて必死で笑いを堪えている、氷室様だった。