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教室の大半の席が埋まり、自由時間も残り十分となった八時五十分。
俺の前の席は未だに空白だった。

HRが始まるまでの暇を持て余した俺は、また卯月と雑談でもしようかと後ろを振り返ると、そいつは春の陽気に負け、朝寝をしている最中だった。朝日に照らされ、きらきらと輝く髪を引っ張ったり、柔らかい頬を摘んだりしても全く起きる気配がない。
俺は卯月とのトークを渋々諦め、今年の'一番'の想像を膨らませていた。

時計の長針が11過ぎを指した瞬間、教室の前方の扉がガラガラと立付けの悪い音を奏でた。
時間も時間だったから、先生でも来たのかと思い、ほとんどの生徒が会話を打ち切り扉に視線を向けた。もちろん俺も例外じゃない。

そこからショートカットを揺らし、小さな歩幅で敷居を跨いで入ってきたのは、小柄な少女だった。顔につけている大きなマスクのせいで表情は読めないが、整った顔立ちが予想されるような綺麗な目元をしていた。
制服のスカートは校則通りの長さで正しく着こなしているし、髪色も黒。その見た目から大人しそうな印象を受けた。

「相田、おせぇ」

彼女の知り合いだと思われる三十一番…廊下側の一番前の席、つまり俺と正反対の席を陣取った生徒…が笑いながら口を動かす。
その姿を確認した少女はマスク越しに微笑んだ、ような気がした。そして少しだけ首を左に傾け、言葉を吐き出した。

「村瀬くん。おはよ、今年も同じクラス、なんだね」

その声は如何にも女の子らしく、優しいソプラノで、静まり返った教室に凛と響き渡る。一つだけ気になったのは、その独特な言葉の区切り方。

少女は続けた。

「あれ、もしかして、わたし、遅刻?」

最初俺は、なんで遅刻?と思ったが周りを見渡してみて、あぁなるほどな、とすぐに理解した。
三十五人が詰め込まれているにしては、静かすぎたから。
その理由を少女は、既に始業時間を過ぎているからだと勘違いしたのかもしれない。

「いま、八時五十八分。ギリセーフ」

三十一番が左腕に付けている銀色の高価そうな時計を確認しながら答える。
よかった、と、少女は呟き俺の方に歩いてくる。

もしかしたら席近いのかな、と、少女がどこに向かうのか気になり、その姿を目で追っていたら、後ろから肩を数回叩かれた。振り返ると瞑想から醒めた卯月が先程より磨きがかかったニヤけ顔で告げる。

「良かったじゃん、今年の楽しみができて」

良かった?楽しみ?
俺は卯月が何故こんなことを言うのか全然見当がつかなかった。素直に疑問をぶつけると、口角を上げたまま小声でこう言った。

「あの子、相田って呼ばれてた。つまり今年の'一番'はあの子だよ」

その答えを聞き、俺は思わず拳を強く握った。

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