派遣OLの愛沢蜜希さんが、ヤサぐれ社員の久保田昇に神様を見るお話
はぁはぁ。
〝今まで、誰かの愛人だった〟
〝そういう事でもないと、今も雇ってる理由が説明つかない〟
……私、そんな風に思われていたなんて。
いつものように15分早くランチを切り上げて、いつも立ち寄る3階の化粧室、個室で一息付いていた所に、それは聞こえてきた。
この3階はシステム課、管理課、事務課のフロアである。閻魔様のおわす人事部はその下の2階だ。この化粧室ではこの時間、お馴染の3人組OLが会社に向けての本音祭り、愚痴大会が止まらない。「もうっ!給料が地獄的に安っすい」「評価のポイントが間違ってるとしか」「ボーナスアップは無理かなぁ」などなど最初は微笑ましい限りだった。それが途中から、具体的な社員がターゲットになって、不満の捌け口が暴走を始める。
「あの役員ハゲ、息してるだけで月60万だよ?もー馬鹿馬鹿しくなるっ」
「あたしらが養ってるみたいなもんじゃね?」
見積りの桁が間違っても気付かない。海外からのメールは見ない振り。
全ての元凶が、その役員にあると攻撃が集中していた。
「ハゲに愛想振りまいてる場合じゃないよねぇ」
「あ、愛沢さんねー」
思わず、肩に力が入った。
この流れで、無能役員に対する捌け口の中心に収まるのが……社会人6年目、この会社に派遣されるようになって2年目の私、愛沢蜜希(28)だ。
「あの人って、前の派遣先でも役員の愛人やってたんでしょ?」
「マジ?パパってやつ?」
「あの人って、もう名前からして……ねぇ?」
続けて、「ぷっ」「ふふふ」と邪な笑みが漏れ聞こえてくる。
「AV女優じゃんね」
女性陣は一斉に噴き出した。ぱちん、とコンパクトを閉じる音に続いて、靴音、笑い声、それが次第に小さくなる。頃合いを見計らって、私は個室を出た。
静まり返った化粧室には、今は水音だけが流れる。
「……AV女優、愛沢蜜希でーっす」
鏡の中の自分に呟いてみたけど。
どっかに居そうなリアル感が悲しい。ショックというより、ですよね?という諦めが今の気持ちに近いかな。いちいち気にしていたら仕事は出来ないし。
胸下辺りまで伸びた長い髪を水で濡らして、毛先をウェーブに任せ、くるんと整えた。12月に入った途端、髪もお肌も乾燥が止まらない。日増しに強くなる暖房がそれに拍車を掛けている。
姿見に自分を映して確認していると、今日は顔色が良いな、と感じた。
「やっぱり、この色で正解」
温かくて静電気が起きにくいと評判のニットは、ミルク・ホワイトの発色が綺麗で、一目で気に入った物。グレーのタイトスカートは1年を通じて活躍する生地を選んでいるし、このブーツもそろそろ5年になるし。そんなこんなを言い訳にして「1万2000円よ」この冬、思い切って買ったニットだった。
長い黒髪。
体のラインにぴったりのニット。
いいねぇ、長い黒髪はぁ。スタイルも抜群だぁ。いいねぇ、若い子はぁ。
はぁはぁ……と来る、そのハゲが目下の所、私の〝パパ〟と言う事らしい。
その役員は何かと私を呼びつけ、どうでもいい雑用を「ボクも手伝うよ」と勝手に横から邪魔してくる。あわよくば触ってやろうと言う欲望が見え見えだ。
セクハラはどこでもある。派遣先を渡り歩くたびに、私は誰かと噂になるけれど、派遣先で誰かと深い仲になった事なんて1度もないのに。
「なってたら……今もそこで働いてまーす」
セクハラも笑って受け流してきた。実情、派遣だからそうするしかない。
ここ株式会社パーソナル・ユースは社会人向けの研修業務を請け負っている。うちの派遣から正社員に昇格した人も居て、私はそこに可能性を見出していた。続々とやって来る他業種のビジネスマンを見ているだけでも飽きないし、任される資料には、困難を乗り切るためのノウハウが詰まっている。廃棄作業の合間に、つい読み込んでしまって、トロい!と叱られた事もあったな。
早めに昼休みを切り上げて、化粧室からオフィスに……階段1つ上のクリエイター3課に戻ってきたら、即、
「愛沢さん」
直属の女性課長が笑顔で近付いて来た。頭の中ではゴングが鳴る。
「コピーと廃棄が溜まってて。悪いんだけど、1課の分もお願いできるかな」
はい。
「今日中でいいの。急がない。ただそこが片付かないと置き場が無くて」
わかりました。早急に。
元々、私はクリエイター3課専属で派遣されてきた。だがこのフロアは他課の派遣社員が長続きせず、結局私だけが今もずっと同じ場所で働いている。
今では、この階に1番詳しい派遣社員だと言う事になり、1課、2課、給湯室から喫煙室に至るまで、フロア中の雑用を言われるままに片付けていた。
コピーと廃棄で2時間が経過。全てが終わる頃には、すっかり外が薄暗くなる。
気が遠くなりそう。廃棄が終わる頃には、ミルク・ホワイトのニットは胸元が印刷物で黒ずんで、すっかりみっともなくて……買ったばかりなんだけどな。泣きたくなるのはこういう時だ。
「今度から、手が空いてる時に時系列に並べておいてくれる?」
はい、と頷いた。感謝されたいと思う事は贅沢かもしれない。ただ、すっかり片付いた事に少しは心動かしてもらいたい、とは思う。
「愛沢さん、次は宇佐美くんの仕事、一緒にお願いできる?」
今年社員になったばかりの新人社員と一緒になって、資料の作成を言われた。
「分かりました」
私は断らない。というか、これを断る理由は無い。
これが……これこそが、ビジネスの中心にいる、と実感できる仕事だった。
作業ではなくて〝仕事〟。
研修会社のクリエイター業務は、顧客からの要望を踏まえて、営業職と企画の中味を作成する仕事である。営業職の右腕になって、何でも手伝うのだ。
新入社員が居れば、そういったアシスタントの役割は彼らに振られ、その下の雑用だけが私に残される。コピーとか廃棄とか、頭を使う事はあまり無い。
だから、こうしてたまに下りてくる案件資料の作成は、私にとっては願ってもないご褒美だった。データ処理もぎこちない新人くんを操りながら手伝う訳だが、まるで1つの作品を作り上げるみたいに、私は真摯に取り組んでいる。
「こっからここまで。まとめろって言われたんすけどぉー」
ペンをくるくる回しながら、新人くんは虚ろに訴えた。
彼は、決して派遣を舐めている訳ではない。単に物の言い方を知らないだけ。
「そしたら、まずは目的に合わせて外せない項目を拾いましょうか」
ターゲットは、サービス業の中堅社員。
達成する目標、テーマは〝接客への意識改革〟。
業界の経験側から問題点を拾って、フィードバックを中心に。
頭を抱える新人くんの様子を窺いながら、
「目次から作ってみますか?」
いきなり浮かんで作り出すというツワモノもいるらしいけど。
「あ、じゃお願いしまっす。僕は統一のイメージなんかを考えますんで」
何だか、漠然と、難しい所を丸投げされたような。
彼は、この春まで1協力会社の新人だった。それが、あれよあれよという間にこの会社の社員に登用というシンデレラ採用である。聞けば、元の会社では御曹司だというから……所詮、社員契約もコネなのかな。思わずため息をつく。
そこに……声を荒げて、一匹の猛獣がオフィスに舞い戻った。
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