誰かのための物語
そんなことがあってから、僕らはなんとなく朝会ったときにお互い挨拶を交わすようになった。「じゃあね」とか「また明日」を言うほどではないけれど。

そして、なにか作業をするとき、僕は森下さんに『ごめん、お願いしてもいいかな?』と聞き、彼女は『うん』とだけ返して快くやってくれた。

それから、美術の時間。果物のデッサンを描く授業だったのだけど、そのときは控えめながら隣から彼女の視線を感じた。僕が慣れない左手で描いていたものだから、気になったのだろう。

森下さんは、「利き手じゃないのにすごく上手だね」と、そんなひとことをくれた。

時間をかけて一生懸命描いたものの、出来栄えは最悪だと思っていたので、唐突な褒め言葉に驚いた。頬が熱くなるのを感じながら、僕は小さな声で「ありがとう」と返した。

それ以外は、今までどおり。必要以上に関わりを持たないところから、彼女は前と変わらず、僕のことをプラスにもマイナスにも捉えていないようだった。

しかし困ったことに、僕のほうは彼女に関心を向けざるを得なくなっていた。隣に

いて、妙に落ち着く雰囲気。見返りを求めない優しさ。控えめな態度。

ほかのクラスメイトと接している姿を見ていると、彼女は微笑みを浮かべ、友達の話を「うんうん」と頷きながら目を見て聞いていた。相手をないがしろにせず、心を向けている態度に好感を持っていた。

彼女の心は、その瞳と同じように、綺麗だと僕は思う。

どんな環境がこんな心の持ち主を育てたのだろうかと、少し興味が湧いていた。
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